日本語と英語の差、またはひとつのフレーズの価値

大学生のときに課題で書いたものです。


「静かな雨の夜に」

(『二十億光年の孤独』谷川俊太郎)


いつまでもこうして坐って居たい

新しい驚きと悲しみが静かに沈んでゆくのを聞きながら

神を信じないで神のにおいに甘えながら

はるかな国の街路樹の葉を拾ったりしながら

過去と未来の幻燈を浴びながら

青い海の上の柔かなソファを信じながら

そして

なによりも

限りなく自分を愛しながら

いつまでもこうしてひっそりと坐って居たい


 谷川俊太郎さんの『二十億光年の孤独』に収録されている作品のなかには、心惹かれる詩がいくつもありました。それでも一編どれがいちばん好きかと問われれば、「静かな雨の夜に」と答えます。詩の善し悪しの判別や読み解き方はわからないけれど、単純な好みで選ぶと、「静かな雨の夜に」はまずタイトルに惹かれました。もともと、雨の夜の雰囲気が好きなのですが、さらに〈静かな〉と形容される雨の夜は特に美しいと思います。
 私は、谷川さんの詩作品はビジュアルでもオーディオでも楽しめるものだと思っています。この「静かな雨の夜に」も同様に、ひらがなと感じの使い方を目で楽しむこともできるし、合唱曲の歌詞にも使われているように、〈〜ながら〉を繰り返すテンポのよさで音としても楽しむことができます。実際に声に出して朗読してみたことが何度もあります。〈〜ながら〉を繰り返す五行分の構成でいちばん読んでいて心地がいいと感じられた要因は、字数が長短を繰り返しているところだと思います。〈拾ったり〉の〈たり〉はふたつ以上の動作を重ねるときに用いる言葉で、しかしここでは〈はるかな国の街路樹の葉を拾う〉ことしかしていません。それでも、正直に〈はるかな国の街路樹の葉を拾いながら〉にしてしまうと、どこか急いだような印象になってしまいます。ビジュアルとしても、極端に斜めに偏っていってしまうので、全体的に緩やかな斜めを描いている部分で極端になってしまうのはおもしろくない、と私は思ってしまいます。


One a Quiet Rainy Night

I’d like to go on just sitting here.

Hearing fresh surprises and sorrows quietly sinking down,

indulging in the odor of God without believing in God,

gathering fallen leaves from city streets in a faraway land,

steeping myself in the magic lantern of past and future,

trusting in a soft sofa on a blue sea,

and, above all else,

loving myself boundlessly.

I’d like to go on just sitting here by myself.


 また、〈〜ながら〉に興味を持ち、ちょうど同詩集に英詩バージョンが載っていたので、比べてみました。日本語では〈ながら〉という次の動作に続ける言葉があるけれど、英語では記号を用いていったん区切って、文頭を大文字ではなく小文字から始めることで続きの動作を持ってきているようです。そのため、ピリオドは〈限りなく自分を愛しながら〉にあたる〈loving myself boundlessly〉の文末に付けられています。日本語では1:8の文章のつもりで読んでいましたが、英詩にすると1:7:1の文章になるようです。

 英詩でみると、日本語でみるよりずっと不思議な感じがします。ひらがなと感じの違いがないからか、なんとなく原詩で読むよりも淡々としている印象を受けます。

 「静かな雨の夜に」を読み思うのは、こういう気持ちになることはよくあるなあ、ということでした。膝を抱えるようにして、ひとりでいつまでもぼんやりと座っていたいと思うことが、すくなくとも私には時折あります。いろんな場所に思いを馳せて、でも実際にどこかに行けるような気持ちでもなく、ただちいさくなって座っていたいのです。
 沈んでゆく、という表現は、ポジティブにもネガティブにも捉えることができると思います。自分のなかにスッと染みていくのも〈沈んでゆく〉と形容できるし、気落ちするように下へ下へと落ちていくことを〈沈んでゆく〉と形容することもできます。私は、この詩を読むたびにどちらの意味で捉えるかが変わっています。気分次第ではありますが、この二行目の受け止め方で「静かな雨の夜に」という詩全体のイメージが左右されてしまっています。思い込みが激しい質を自覚しているので、ひとつの解釈を決めきれずこうして毎回違う姿で同じ詩と向き合えることをうれしく感じます。

 私がこの詩から受ける印象は膝を抱えてすわるイメージであり、それはきっと良くも悪くも様々な感情を自分自身に向けているからだと思います。〈神を信じないで神に甘えながら〉という一行は、〈限りなく自分を愛しながら〉につながると私は考えています。つながる、というより、私のなかではほとんど同意義の一行になっています。
 谷川さんがちょうど私と同じくらいの歳の頃に書いた詩が、この『二十億光年の孤独』におさめられている作品たちです。あたたかくて、もろくて、背筋を伸ばしたこれらの詩たちが、私にはとても好ましく思えます。代弁というには贅沢すぎますが、いつの間にか自分を投影して真剣に読みふけっていることが多くあります。

 英語と日本語で比較し、日本語で読みうつくしいと感じられることをうれしく思いましたし、英語で読んでなお失われない詩の雰囲気にもまた惹かれました。そして、ひとつひとつのフレーズを取り上げて吟味してみて、改めて言葉の選び方が繊細ですばらしいなと思いました。
 「静かな雨の夜に」は自分のなかにある実にさまざまな感情を掘り起こされます。そのうえで、じっと膝を抱えてぼんやりとしている心地になるのです。こんな思いをできる詩と出会えたことはしあわせです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?