見出し画像

第十三夜 『将棋の子』

「自分、才能ないんですかね。」

ある時、部下のHが唐突に言った。
その発言から結果はわかってはいたものの、聞かねばなるまい。
「T様の商談の結果を報告してください。」

Hからすれば、労いの言葉の一つでも期待していたのかもしれない。そんなことはない今回は運が無かっただけだと言葉だけでも言って欲しかったのかもしれない。しかし、上席としての私の勤めは先ず現状把握である。そうしなければ、労いなんて生産性のない傷の舐め合いになってしまう。

Hは一層、バツが悪そうに言った。
「他社で購入するとのことです。」

そこから私はHに今回の商談の音声を受け取り問題点を洗い出す。問題点というのは見つけようと思えばいくらでも出てくるもので、Hの商談音声を聞きながら「もっとこうしていれば」、「そこでもう一度お客様のニーズを伝えれば」などとスポーツ観戦者のようなたらればを探した。
聞き終わり、問題点をまとめたメモを手にして会議室へ移動した。それらをHに報告するためである。

Hは素直な男で、そのアドバイスを真剣な眼差しで聞いている。お世辞にも大きな才能があるとは言えないものの、この素直さ、真摯な姿勢だけでも誇るべき才能だろう。
しかし、これらの才能は複利のような効果があるもので、すぐには結果に結びつき辛い。

Hは私とのフィードバック面談が終わると、また肩を落として執務室に戻っていった。Hは入社から1年近く経つもののいまだに結果が出ておらず、この冬に私の元へ配属移動となったばかりであった。

Hとの面談を終え、私はというと会議三昧である。会社員をやっていると「この会議必要なのだろうか。報告書面だけでいいのでは」と思う類の会議があるだろう。まさにそんな会議が立て続けに入っていた。その上、その日は就業時間終了の20時からのアポイントも入っており、22時に帰ることを目標にしていた。

そんな日は目まぐるしく時間が過ぎるものである。1日の業務を終え、執務室戻ると、22時を過ぎているのにHがまだ残っていた。

「遅くまでお疲れ様。残業申請受けてたっけ。どのくらいで終わりそうかな。」

「お疲れ様です。ごめんなさい。実は残業申請退勤時間の直前にしてしまって、アポイント中だったの確認できなかったですよね。ごめんなさい。」

「謝る必要はないよ。申請観ればいいんだけど、目の前にいるから聞いてしまうね。残業の業務内容は何かな。」

「過去に問い合わせのあったお客様に電話とメールでアポイントの取得を行っておりました。」

「時間内に終わらなかったか。今日で何件リスト追ったの。」

「300件です。」
普通、入社して1年そこらの子はこれだけお客様にアプローチをしていると褒めて欲しそうにしてくるものである。しかし、Hの表情は今にも泣き出しそうなものだった。
「アポイントは1件も取れませんでした。」
あまりにか細い声だったので聞き落とすところであった。

「周りの同期はもう結果も出ているのに自分だけ結果が出ていないんです。みんなよりもアプローチはしてますし、残業してでも資料を作ったりもしてます。それでも、結果が出ないのってなんでなんですかね。」

半ば自暴自棄になったような聞き方であった。結果が出ないのはなぜか。これは営業職をやる上で非常に難しい問題であるだろう。そして同時に、ありきたりな質問でもあった。新入社員や未経験者が悩みぶつかる壁である。そして、往々にして上席はその答えを持っていないものである。

私はこの手の質問には決まってある話をするようにしている。それは明確な答えではない。ある意味では逃げの回答である。

「奨励会って知ってるかい。」
予想もしていない言葉をかけられHは不思議な顔をして首を横に振った。

「奨励会というのは将棋のプロになる前の養成所のようなところなんだけどね。実はプロっていうのは奨励会から毎年4名しか選出されないんだ。年齢制限もあるから、それこそ熾烈な戦いが繰り広げられている。」

「はぁ。」

「僕はどちらかといえば将棋には疎いんだけどね。学生の時に『将棋の子』という本を読んで知ったんだよね。その本っていうのがまた変わっていて、奨励会でプロになれなかった人たちの物語なんだ。」

「今の僕ということでしょうか。」
不安そうな表情でHは私の顔色を伺う。

「そうじゃないよ。僕が話したいことはそんなことじゃない。奨励会っていうのはプロの養成所なんだけどね。そこに入って残ること自体も相当なハードルなんだ。地元では誰よりも将棋の上手い子がこぞって集まってくるんだ。でもプロになれるのは毎年4名。Hだったら入れそう?

「自信ないです。」

「そうだよね。でもねここで言いたいのは、君がプロになれない人間だなんてことではない。なれなかった奨励会の人たちは才能が本当になかったのだろうか、人よりも努力しなかっただろうかということだ。その本にはね。多くの人が運やタイミングでプロに届かない事例なんてものがいくらでも出てくるんだ。

Hは相変わらず、得心いかない顔つきである。当たり前だ。これだけの遠回り、私が話を聞いていても理解できないだろう。だが、それでいいだろう。

「運が悪かったということですか?」

「もちろん、今日指摘したことなんかも要素の一つだよ。ただ、全てじゃない。Hは今日もこの時間まで努力をしている。だからと言って結果がついてくるとは限らない。でも、それが悪いことばかりとも限らない。そこまで全力でやっているのであれば、そもそも販売手法が合っていないだけかもしれない。もしくは、営業職があっていないだけかもしれない。それを知るためには結局のところ全力でやってみるしかないんだよ。」

「正直、理解しきれなかったです。一度、その本を読んでみようと思います。」

「それがいい。とにかく今日は書店でも寄って帰りな。切羽詰まっているような雰囲気もお客様を不安にさせることがあるからね。」

「わかりました。明日こそ、アポイント取得します。」

Hが『将棋の子』を読んだのかどうかは聞いていない。しかし、Hは数ヶ月後初めて販売をした後に、部署異動をした。営業畑から管理業務への異動であった。

数週間前、Hが同期で一番早く係長に昇進した話を耳にした。彼の才能を活かせるステージを見つけたようだ。

物語の続きはまた次の夜に…
良い夢を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?