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先生と僕(3)「ナイーブ先生」

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鼠色の分厚い雲が街を覆い、光を遮っていた。木々たちは葉を失い、冷たい風に震えながらも、骸骨のような枝を天に伸ばしていた。色を失った冬の世界では、光だけが希望だった。たとえわずかな光だったとしても、木々は追い求めた。やがて春が訪れ花を咲かせられると知っているから。

 次の授業は世界史だ。先生が急病でしばらくお休みすることになり、今日は代理の先生が来ることになっている。
だが、授業開始のチャイムが鳴り響いたというのに、先生は現れない。これで今日の授業はなくなったと、生徒達が気を抜いてお喋りをし始めた時である。
 教室のドアがゆっくりと開いた。隙間から様子を伺うように、一人の男の顔が覗く。
「すいません、遅くなってしまいました」
 静かに教室へ入って来た男は、細身で青白い顔をしていた。生徒達の機嫌を伺うように
「皆に嫌われるんじゃないかと不安で、なかなか教室に入ることが出来ませんでした。申し訳ございません。今日から、代理で世界史を教える、清川治と申します。よろしくお願いいたします」
 自己紹介をする。先生は震える手で白いチョークを握り、黒板に自分の名前を書いた。しかし、書いた文字は震えているうえに筆圧が弱すぎて、絹の糸のような細い線が漂っているようにしか見えない。とても読み取ることは出来なかった。
「先生、赤いチョークを使った方がいいと思います」
 僕は先生にアドバイスをした。
先生は言われた通り、今度は赤色のチョークに持ち替え、名前を書いた。震える手で書いたそれは、やはり読み取ることが出来ない。黒板にはぼんやりと赤い何かが浮かび上がっているようにしか見えなかった。
「先生、もう少し右にお願いします」
 僕は再び先生にアドバイスをした。
先生は言われた通り、少し右に位置をずらし名前を書く。震えは収まらないので、やはり、読み取ることが出来ない。黒板には、ぼんやりとした赤いモノがもう一つ生まれた。
「先生、次は左にお願いします」
 先生は言われた通り、少し左へ位置ずらして名前を書く。ぼんやりとした赤いモノがもう一つ。
 僕はそれでも先生に何度か指示を繰り返した。

「これって……」
 隣の椿ちゃんが気づいてくれたようだ。僕は彼女に微笑みかける。
「そうだよ。君の名前」
 先生が何度も書いた文字は全く読み取ることはできないが、僕らの席から遠目に見ると、赤い椿の花に見えるのだった。僕の指示で位置をずらしながら先生が書いてくれたおかげで、黒板には、いくつもの椿の花が咲いた。
 冬に咲く椿の花は、色を失った冬の世界ではひときわ鮮やかだ。寒さで背を丸めた人々の視界を明るくしてくれる。
 椿ちゃんは、黒板に咲いた椿の花に目を輝かせている。頬が赤い椿のように染まった。僕はついそんな彼女の頬に触れてしまう。
「ごめんね、あまりにもきれいだったから」

To be continued.

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