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診断を受けて思うこと

 私が医療機関で正式に障害認定されたのは大人になってからだった。でも、それはこれまでにもあった困った癖のあれやこれに医学的な名前がついたのがたまたまその日だっただけ。私のなかでは自身の性質は物心がついてから一貫している。

 私はサザエさんもびっくりのおっちょこちょいで、いつも忘れ物や書き損じにまみれ、ミスをカバーするのに更にミスをしてひとり忙しがっている。だが、それはADHDと診断されたから、そうなったのではない。にもかかわらず、私が発達障害と診断されてからの周囲の反応を見ていると、どうもそう見えないらしい。 

 これはいくつか理由がありそうだ。
 まずは、これまで他人なら気づかなかった私の個人的な忘れものに、障害の先入観から目が行って、結果的に増えたように見えること。
 それから、これまで健常者同士としてなら意識せずできたフォローも、気遣いゆえにエピソードの滑らかが失われ一回の忘れ物も印象に残りやすくなること。 
 例えば、かつては、
「赤ペン貸して」
「いいよー」
 で終わっていたのが、カミングアウト後は、
「(やっぱり忘れっぽいな)ペンケースはある?他にも色々ないんじゃない?」
「(そもそも返してくれる?)いいけど、終わったら返してね。また声かけるから」
「もうさ、私のを一本あげるから、ここに置いときなよ(また忘れるんだろうし)」
 と言った具合に、相手によって気遣いの方向性は異なるが、何れにせよこれまでの「いいよー」に比べれば格段に脳のメモリを食うやり取りに変わる。
 あとは、私にだって病的なのとは別に、健常な人と同じ程度、生き物としての調子の良し悪しがある。運の良し悪しも。相手が私の評価をしたその日がたまたま、生理2日目だったり、子供が熱を出した日だったりも当然する。でも、先に私の障害を聞いていると、無意識に失敗の理由から障害以外の理由が除外されやすいようだ。

 しかし、基本的に私は変わらない。一貫してうっかりし続けている。
 前はそうじゃなかった、と近しい人ほど言ったりする。でもそれは、上の例だと2番目のパターンで、今まで相手が無意識に私にかけていた労力が、障害というフィルタによって可視化されただけなのだ。(私の母親は幼少期の私が寝たあと、鞄の中身をチェックしてくれていた。その結果、小中学生の間、私は対外的には忘れ物の少ない子どもで、学校から指摘されなかった為に母親さえそう思っていた)

 逆に診断を受けてから良くなったね、方向で私に変化を見出そうとする人もいる。蛙鳴ちゃんは自分の障害を受け入れて、ちゃんと自己分析してエライ。忘れ物も自分で気をつけるようになって、随分減ったじゃない。
 確かに診断を受けたことで、服薬や自己認知の構造がかわり、結果の現れ方が変わることはある。ただ、対策の結果、忘れ物自体は減ったとしても忘れやすい性質自体は変化しない。
 そう言うと、だいたいアナタ発達障害とか大袈裟なのよ、と笑われる。忘れ物なんて私だってしょっちゅう。前ほど忘れなくなったんなら、もういいじゃない。私たちと同じ。
 私の忘れ物、それは朝晩の服薬の他にも各種リマインダー、念の為に書いておいた予備などの保険を全て突破した忘れ物だ。付箋はどっかへ行き、手の甲のペン書きはアルコール消毒で消え、メモ帳は持っていくのを忘れ、玄関のホワイトボードにはそもそも書くのを忘れ、スマホは電源切れ、予備は間違ってシュレッダーしちゃった、みたいなケース。それを集めたものが、一般の人と同じ忘れ物数だとして、診断後の私は「良く」なったのか。

 私に変化を見出して「早く良くなって」と言う人も、「良くなって良かったね」と言う人も、どちらも善意からのものであることは十分に承知している。ありがとう。
 でも、繰り返すが、私は連続する同じ性質を持った私で有り続ける。良くも悪くも。
 もし何かが変化するとすれば、おそらく私を観察し評価しようとする周囲の物差しであり、その変化に伴って変わる私との関係性だ。 
 障害の診断を明かすと、多少関係性が変わることは必然だろう。しかし、その変化の中に、これまでの私との連続性を踏まえた関わり方を残しておいてもらえると嬉しく思う。
 私自身も、わざわざ障害を打ち明けたからには、相手の配慮に感謝し、障害を便利な免罪符にするようなことがないように気をつける。障害者の側からも、これまでの相手との関係の連続性に気を配らなくては、自ら壁を高くしてしまいかねない。

 苺は果物か野菜か。野菜と分かったところで、急にサラダに入れようとすると、関わり方が難しい。(イチゴサラダは美味しいけれど)
 へー甘い野菜もあるんだ、と思って今まで通りかじって欲しい。これまでと同じイチゴ味だ。
 他の野菜たちに比べて潰れやすい特徴もそのままだけれど、もしあなたとうまく協力できたなら。丈夫なパックに詰められて海の向こうで美味しいサラダになるかもしれないし、ならないかもしれない。

 



 
 

 

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