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飽きっぽさの罪#8/6

先に言っておくと、私の飽きっぽさは筋金入りで、しかも打開策なんてものは未だみつけられていない。私の人生が人に「なんでそんなに事件ばかり起こるんだ」だったり「自叙伝書きなよ、売れるよ」と言われたりするほどエキセントリック続きなのは、飽きっぽさに所以するところが大きい気がする。

noteだって初投稿から連続一か月を目指して途中でまんまと挫折した。原因は飲酒。終電。午前様。私が長続きするのはほんの一握りの友人関係と酒くらいだ。快楽に弱すぎるんだよ、おまえ。最近男友達に言われたひとことだ。

別れていった男たちも、楽しいことだけ覚えている。私の身勝手さにつらそうな顔もしただろうに、呪詛のような恨み言を吐いたこともあるだろうに、みんな私の青春を彩っただけの人として記憶されている。すべて笑い話にしてしまうから、人として大切な記憶とか痛みを全部忘れていくみたいだ。私だけが飽きて、次にいって、忘れ去られたほうはいつまでその痛みを覚えているんだろう?私にはわからない。

人生のいくつもの瞬間で吐き気がするほど悩んだり罪悪感にさいなまれたりそういうことをしてきた気はするのに、自分でもその痛みを思い出せない。
「死ななきゃ安い」ってたぶんこういうことじゃない。切り替えが早い、ってのもたぶんこういうことじゃない。

もうすぐ30になる。ひとつのことをずっと続けられる人になりたい。ひとりの人をずっと愛せる人になりたい。友達のように、酒のように、「あなたさえいれば、これさえあれば、これ以上の幸せはない」と思える人になりたい。いちど愛したものに突然興味を失って、おもちゃのように投げ出すのをもうやめたい。よそ見をしなければいいんだろうか?「こっちの方が楽しそう」と思うことが多すぎるんだろうか?いっそ引きこもろうか、この目をつぶしてしまおうか。

積み重ねたものを、大切にできる人になりたいんだ。自分がおかしいのか、周りがおかしいのか、そんなものは一生わからないのに。

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