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「やりたいことリスト」から得た一歩

今年のやりたいことリストを50個まで書き出した。昨年はなんとなくバタバタしていた気がしていて、そろそろ再開したいなあと思っているものがたくさんあることに気づく。

ライブやフェスに行く、舞台を観る、オーケストラの演奏会を観る
この辺りの「生で観る」みたいなものが最近あまりできていない。多分コロナで距離ができて少しずつ低空飛行になって行って、気がついたら去年それが地面スレスレまできていた、という感覚。

あれだけ通ったライブに、5回しか行っていない。うち4回は誘われてついて行ったに等しい。由々しき事態だ。

インプットが減るとアウトプットも激減する。元々好きなアーティストのファンアートを描きまくっていたのに今や筆を持てば良い方。熱量のある文章を何千字も書けない。

そこそこ感受性豊かすぎる傾向の私にとっては、このくらいがあまり情緒に波風を立てず穏やかな日々として良かったのかもしれない。という気もする。
一度のめり込むとそのことしか考えられないし、創作に没頭すれば寝食も犠牲にする、そのあまり健康的とは言い難い状態を生まずに済んだと思えば。

それでも、なんかよくない、なんだか自分をどこかに置いてきたような気がする。
そんなわけで今年は特に「生で観る」「チケットを取って体験する」ことにひとつこだわってみたい。

手始めにと映画館に行ってきました。「カラオケ行こ!」
変声期に悩む中学3年生、合唱部部長の聡実くんと、のっぴきならない事情により歌が上手くなりたいヤ…ブラック企業の狂児さんによる群像劇。

映画館で映画を見るというのがもう何年振りかもわからないくらい久しぶりのことで、チケットの買い方の変化に驚き。わくわくと少しお高めのポップコーンまで買ってしまった。すでに楽しい。

軽やかに、良い意味で何も考えず見られるストーリーは映画館で見るに物足りない人もいるのかもしれない。でも、役者の僅かな表情の変化だったり、奥行きがある広めの画角の絵だったり、2時間のあいだ映画だけ観ているからこそ気付けたであろうことがたくさんあった。

私は普段専らiPadで配信を流し、ながら見する形で映画を見ているから余計にそう感じたのかもしれない。情報を受け取りすぎる私にとっては、感動的すぎるストーリーも、大迫力の演出も、真剣に見続けるには少し苦しい。
そこから逃げながらも楽しむための映画の見方だった。映画館はそれができない、密かに苦手意識があった。

でも今日は素直に行ってよかった、と思った。忙しすぎる日々の中で、スマホの画面を見ない2時間は貴重だ。そして一緒に見ている人たちの反応を感じられるのも、家で見るには得られない体験だった。ライブも一緒だなあと思う。

リストに書いたやりたいことたちが、リストに書いてない映画館を連れてきた。そして今は、リストにあることをいつやろうかとわくわくしている。やりたいことリストというのは、情報の捉え方を変えるのだなあと思った体験だった。

やりたいこと、たくさんやるぞ。


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