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【小説】青の音#7

第七話

振り向いた彼女と僕はしばらく黙って向かい合っていたと思う。恐ろしく長く感じたが、実際はどれくらいの時間が経っていたのだろうか。彼女はゆっくりと口を開けて深く息を吸った。そしてそっと呟いた。

「空は・・・あの世の空は・・・この世の空よりも美しいと思いますか。」

空?なぜ彼女は空の話を突然始めたのか?あの世から見える空?僕の頭の中は疑問符で埋め尽くされた。でもこれは彼女が僕に伝えたいメッセージだ。僕はゆっくりと頭の中で反芻した。

『空』『あの世の空』『この世の空』

「僕はあの世の空を見たことがないけど、あの世ではきっと空は見えないと思います。だって・・・だってあの世は空の上にあるから。」

正解があるのだろうか。いやきっとないだろう。あの世の空を見たことがある人はこの世にいないのだから。

彼女はゆっくりその目を下げた。

「私はそうは思いません。死んだ人は生きている人より美しい空が見えて当然です。そうじゃなかったら私たちは何のために生きるのですか。死んだ人は生きた人です。私たちは美しい空を見るために死ぬんです。私は早くこの世より美しいあの世の空を見てみたい。早く。今すぐに!」

彼女が話しながら明らかに動揺しているのが伝わった。呼吸がどんどん早くなっていったからだ。

しかし僕はしばらく何も言い返せなかった。彼女の論理は僕の心に深く刺さった。彼女は今すぐこの世から消え去りたいと思っている。今度は客観的な確証があった。現に彼女は今すぐにでもあの世の空を見たいと言っているのだから。でも不思議だ。ついさっきまでそんな彼女を止めなくてはならないと思っていた。でも今は彼女の意思を否定することができない。この世から消えたい気持ちが、川に飛び込もうと思ったあの日の気持ちが、一瞬で僕に襲いかかってきた。苦しい。辛い。彼女も今同じ思いでいる。ここで彼女に生きることを強いるのはあまりにも残虐ではないか。でもこのまま彼女を放っておくことはできない。姉が言ったのだ。「たすけて」と。僕が助けられなかった姉が言ったのだ。助けないわけにはいかない。でもなんて声をかけていいか分からなかった。こんなとき礒谷ならなんと言うだろうか。「生きろ」と率直に言うのだろうか。でも僕にはそれがどうしてもできない。「死なないで」とも「生きて」とも言えなかった。死にたい気持ちが痛いほど分かるからこそ、その言葉は時に凶器になりうることを知っていたからだ。

「『今すぐに』じゃなくて、もう少し待てませんか。」

これが僕の心の叫びだった。とにかく一日でもいいから思いとどまってほしい。死にたい思いは消さなくていい。ずっと持っていていいから。僕が彼女のためにできることを探す時間が欲しかった。彼女が思いとどまる決定的な一言が、すぐに浮かばないことが悔しかった。姉と同じ目をした彼女。そして姉の声。僕が彼女を引き止めたいと思うのは、姉と彼女を重ねているからだった。つまり、彼女を助けたいその動機は、とても自分本位なものだった。何よりそれが苦しかった。僕はもう泣きそうだった。

すると彼女はゆっくりその目を僕の目に向けて、口を開いた。

第八話


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