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【小説】青の音#14

第14話

ついにその日がやってきた。僕は朝から緊張していた。しかし礒谷の話を聞いてから、強い不安感はなくなった。この日が彼女にとって生きやすい一日になればいいと思った。集合よりも少しだけ早く海に着いた。僕は約束の時間の少し前に着くことが昔からの癖だった。遅刻しそうになって慌てることがなにより嫌いだからだ。しかし彼女はまたしても、僕より早く到着していた。彼女は一体いつもどれくらい早く到着しているのだろうか。彼女はまた海をじっと眺めていた。今度は彼女を名前で呼ぶことができる。しかし、先日計画を進めるなかで、彼女は下の名前で読んで欲しいと言ったため、僕は下の名前で呼ばなくてはならなかった。「女子は基本的に苗字呼び」が男子校生(とりわけ『礒谷タイプ』ではない僕ら)の暗黙の了解だったのもあり、僕はとても抵抗があった。なんで?と彼女に聞くと、自分の名前が好きだから、と言った。そう言われるともう何も言えなかった。

「百音さん。」

まだ歯痒い気持ちを拭いきれなかったが、同時に距離が一気に縮まったような気がしてすこし心が温まった。

「律くん。おはよう。」

彼女の笑顔は今日も風に揺れるかすみ草のように静かだった。また、彼女がこの場所に来てくれた。約束通り、来てくれた。彼女もまた苦しかったかもしれない。それでもこの日まで生きて、今日ここに来てくれた。そう思ったら、なんだか頭が熱くなって、涙が出そうになった。流石に堪えた。

僕たちはバスに乗り込んだ。昔姉と二人で乗ったバスだ。ふと姉の笑顔が浮かぶ。バスに乗っている間、彼女はずっと景色を見つめていた。まるで何かを探しているかのように、凝視していたのが少し気になった。何か話をしようかとも思った。彼女をもっと知りたかった。ふと横に座る彼女を見た。彼女はまだ景色を見ていた。肩に力が入っているのが分かった。彼女の緊張がひしひしと伝わってきた。僕と一緒にいることに緊張しているのか、それともバスに乗っていることに緊張しているのか。とにかく僕は黙って隣にいることにした。彼女が口を開くまで待とうと思った。結局彼女はバスから降りるまで、一言もしゃべらなかった。もし、鈴の音山に登る時も黙っていたら、どうしようかと思ったが、彼女はバスから降りた途端、安心したかのように両手を空へ伸ばし、深呼吸をした。そして、

「やっと着いたね!」

と、僕の方を見て笑った。そんな彼女の姿を見て、僕も安心した。彼女はきっとバスに乗ることに緊張していたのだろうと思った。電車の時もそうだったように、もしかしたら乗り物に乗るのが苦手なのではないかと思った。いろいろな予想が浮かんだが、彼女に尋ねるつもりは一切なかった。彼女が話したいなら、話せばいいし、話したくないならそれでいいと思った。

第15話


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