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【小説】青の音#11

第11話

約束の日になった。僕は放課後、あの日と同じ時間に海に行った。彼女はすでにそこにいた。砂浜に立ち、波を眺めていた。僕は初めて彼女の姿をしっかりと見た。細い体は今にも風に倒されてしまいそうだった。光に当たっても全く明るくならない漆黒の髪の毛は肩につくくらいの長さだった。風に乗って静かになびく様子は、彼女の抱える闇とは正反対に、とても軽々しく爽やかだった。

僕は彼女に声をかけようとした。その時初めて彼女の名前を知らないことに気づいた。初対面の人に自分から名前を聞かないことはよくあった。忘れてしまうというよりは、とても聞きづらかった。「名前は?」と聞くのにどうしても勇気がいる。強引に距離を縮めているかのように感じてしまう。自分が名前を聞かれた時は全然そうは思わないのに。礒谷に初めて話しかけられたときは、僕はすでに礒谷の名前を知っていたし(おそらく全生徒が知っていた)、彼の第一声は「神谷律だよね?」だった。なんというか、とても心地よい初対面だった。

とにかく彼女に声をかけなくてはならない。僕は数秒迷ったが、自分の中で決めた、一番自然な話しかけ方を実行することにした。

「すみません。」

彼女は素早く振り返った。少し怯えているようにも見えた。肩に力が入っているのがわかった。僕のことを忘れてしまったのだろうか。

「あの、先週、一番美しい空を見つけるって話を・・・。」

「覚えてます。あの日の方ですよね。わかります。」

彼女はまだ僕の目を見なかった。

「えっと・・・見つけました。あの・・・この世で一番美しい空。でもその前に名前・・・聞いてもいいですか?」

ついに言ってしまった。違和感しかない。自分に対する嫌悪感に苛まれた。でも聞くしかなかった。知りたかった。

「浅田百音です。百の音って書いて、ももね。」

「浅田百音、さん。」

「はい。あの、お名前は?」

「神谷律です。旋律の律。」

「あ、すごい、二人とも音に関係してる。」

彼女は少し笑った。少し瞳が明るくなった。

「あ!そうですね、すごい。」

彼女が笑ったのが嬉しくて、思わず声がうわずってしまった。

「この世で一番美しい空、見つけたんですか?」

「はい。いや僕は見たことないんですけど、多分、そこがこの世で一番美しい空です。」

「遠くですか?」

「近くです。鈴の音山ってわかりますか?」

彼女は首を振った。

「隣町の小さな山。そこの山頂にこの看板があって。これです。見てください。」

僕は彼女に姉の絵を見せた。言葉で説明するよりもこの絵を見せた方が早いと思った。彼女はしばらくじっと黙ってその絵を見ていた。彼女の瞳の闇にその絵の青が吸い込まれそうだった。そのくらい彼女は凝視していた。特に青色の空に。そして急に顔を上げて、こちらを見た。その日初めて彼女と目があった。

「ここ、行きたい。」

彼女のその声には今までで一番力がこもっていた。この世の空よりあの世の空の方が綺麗だと言っていたあのときよりも、もっと力強く、そして何よりわずかだが希望を持った声だった。音域は高く、呼気のこもった声だった

「うん。行こう。」

彼女は小さく声を出して笑った。初めて彼女を見たときには想像もできなかった笑顔だった。彼女はきっと今、生きようと思っている。そう思ったら心の底から喜びが湧き上がった。

第12話


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