見出し画像

【小説】青の音#9

第九話

それからの日々はもう本当に文字通り「必死」だった。  

夏休み初日にしてすでに過去に例を見ない最高難度の宿題を渡された僕は、そのプレッシャーに押しつぶされそうだった。彼女に「一番美しい空」を見せないと彼女はきっと死んでしまう。でもいくら考えても「一番美しい」という定義が分からなかった。僕は眠れなかった。四六時中「一番美しい空」という言葉を頭の中で繰り返した。いくつか考えもあった。一番空に近い場所か、自然の絶景と空を同時に眺められる場所か、そもそも雲一つない晴天か、積乱雲が荘厳と佇む空か、雲の合間から見える空か。しかしどれも納得がいかなかった。彼女の中の「一番美しい」とは何なのか。教科書にも本にもネットにも答えはない。僕は何をすればよいか全く分からなかった。

そうこうしているうちに五日が過ぎた。僕は寝不足で肉体も精神もすっかり疲れ切っていた。深夜、冴え切っているはずなのに、どこかぼーっとしている頭で、彼女との出会いを思い返した。電車の前に震える彼女、ホームで座り込む彼女、異常にゆっくり歩く彼女、何かを見ているようで何も見ていない彼女。僕はなぜ彼女に声をかけたのか。


そのとき、肩に冷たい風を感じた。あの時、彼女の背中から吹いたあの風と同じだ。その風に乗ってまた声が聞こえた。姉の声だ。

『律、ここにあるよ』

久しぶりに姉に名前を呼ばれた。僕は嬉しくて胸がいっぱいになった。涙が溢れた。

『律、ここにある』

僕は止まらない涙を必死に拭った。泣いている場合ではない。姉は何かに気づいてほしいのだろう。声が響く方へ行ってみるしかない。姉の声が聞こえる方へ、ゆっくり進んだ。足が震えていた。涙はこれでもかというほどに溢れてきた。姉に名前を呼ばれた嬉しさだけでなかった。彼女のために何もできない自分の不甲斐なさ、「一番美しい空」がいつまでたっても分からない焦り、いつ彼女が消えてしまうか分からない恐怖。この数日抱え込んできたものが全て涙となって溢れてきた。

姉の声がするところ。それは姉の部屋だった。そこは僕がこの一年間、一度も足を踏み入れていない場所だった。姉の生きた証が静かに置かれた部屋。母がこまめに掃除しているが、机の上に置かれたノートやパソコン、脱ぎ捨てられた服、乱雑な布団、そして姉の趣味だった絵の数々、すべてあの日のままにしてあるという。それを聞いて僕は、とんでもない恐怖に襲われた。部屋に入ってはいけない。そう確信した。自分がどう反応するか分からなかった。突発的な行動にでるであろうことは容易に想像できた。それまで近づきすらしなかった部屋から、姉の声がする。僕の足は止まった。また冷たい風が吹いた。

『律、ここにある』 

彼女の姿が浮かんだ。深い闇を纏った目でこちらを見つめていた彼女の姿を。彼女を助けたいと思ったのは、姉の声がしたからだ。彼女と姉が重なった。それが全ての始まりだった。姉は彼女を「たすけて」と言った。姉は彼女を助ける方法を知っているのかもしれない。僕はそう確信した。僕の中の真実は決まった。

僕は姉の部屋のドアノブをゆっくり回した。扉をそおっと開けた。開けた途端、冷たい風が一気にこちらへ吹き込んできた。ものすごい勢いだった。床に散らばった姉の絵が空中に舞った。窓が開いているのではないかと思い、確認したが、しっかりとしまっていた。一体どこから風が吹いているのか全く分からなかった。その時一枚の絵が僕の目の前をゆっくりと降りて行った。その瞬間、時間が止まったかのように感じた。

第十話


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?