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【小説】青の音#4
第四話
僕はその日、姉が家を出る直前、姉の異変に気づいていた。でも引き留めなかった。姉のサインに気づかないふりをした。つまり、姉を助けなかった。
姉はその日の昼過ぎ、リビングでゲームをしていた僕に、珍しく話しかけてきた。
「海行ってくる」
「散歩?」
「散歩。ずーっと散歩。」
「ふーん。いってらっしゃいー。」
姉は荷物を何も持っていなかった。でもそれは別に珍しいことではなかった。二年前、高校でいじめにあってから、姉は不登校になった。それでもずっと部屋にいるわけではなく、ふらっと出かけるようなこともよくあったのだ。でもその日、僕にはひっかかることがあった。「ずーっと散歩」という言葉が妙に引っかかった。玄関が閉まる音がした。姉はもう戻ってこない気がした。直感とでもいうのだろうか。姉が出かけてから、何も手がつかなかった。一度「帰ってこないのではないか」と思うと、その想像が止まらなかった。でも姉のことだ。きっといつも通りふらっと帰ってくるに違いない。そしてまた部屋に籠るのだ。気を紛らわせたくてテレビをつけた。音量がとても小さく感じた。しかし音量を上げても上げても音が耳に入ってこない。すると急に喉が締め付けられた。苦しい!と声に出そうとしたが、もう声は出ない。呼吸がどんどん早くなった。今すぐ姉を追いかけなければいけないと思った。僕はほとんどちゃんと息ができないなか、必死に走って外へ出て、海へ向かった。苦しかった。本当に苦しかった。海は歩いて5分ほどの距離にあった。ふらふらになりながら、なんとか海に着いた。波はかなり荒れていた。
「姉ちゃーん!」
僕は必死に叫んだ。でも声にならない。手足が震えた。息が苦しい。それでも叫び続けた。姉の姿が見たかった。姉の声が聞きたかった。しかし姉の姿が見えたのは、姉の声が聞けたのは、ほんの十分前が最後だった。
それから数日間の記憶はほとんどない。僕はショックで高熱を出していたらしい。熱が下がってからの数週間は奇妙なほどに体がよく動いた。普通にご飯を食べ、普通に学校へ行き、普通に寝た。周りの人は驚いていた。「ちゃんと立ち直って立派だね。」なんて近所のおばさんに言われたりもした。僕も自分がよく分かっていなかった。しかしある日の朝、目覚めた時にふと「死にたい」と思った。引き金は姉を助けられなかった罪悪感、自分への嫌悪感もあっただろう。しかし当時の僕の心にはただふたつの言葉が反芻しているだけだった。
『死にたい』
『姉ちゃんに会いたい』
足が勝手に動いた。部屋着のまま外に出た。ふらふらと歩いた。いや歩いているという感覚はなかった。何かに導かれているようだった。
『死にたい』
『姉ちゃんに会いたい』
僕の足が止まったのは、高い橋の上だった。下には濁った川が流れていた。
『死にたい』
『姉ちゃんに会いたい』
なんの恐怖もなかった。僕は橋に足をかけた。下を見た。下に落ちたら姉に会える気がした。姉に会ったら、姉を抱きしめようと思った。強く強く抱きしめて、助けられなくてごめん、と一言伝えようと思った。
『死にたい』
『姉ちゃんに会いたい』
上半身を傾けた。そのときだった。
何かがものすごい勢いで僕を横から押しどばした。
「お前なにやってんだよ!」
そこには馬乗りになった礒谷がいた。
「姉ちゃんせっかく楽になったのに、また苦しめるのかよ!」
礒谷の溢れ出した涙が僕の顔に落ちた。
そのとき、僕の中で反芻していたふたつの言葉は消えていった。
僕は礒谷に命を救われた。
第5話
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