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墓じまいの贈りもの

実家のお墓の、墓じまいの手続きが終わった。

亡くなった母の埋葬をどうするかで家族の話し合いが始まり、最終的に先祖の墓ごと田舎から私の住む関東へ移し、永代供養にして墓じまいしようという事になった。
話し合いが始まってから、何度も新幹線で往復し、1年半もかかってしまった。

母には遺言があり、遺骨は、飼っていた猫の骨と一緒に埋めてほしいとのことだった。
人間と動物の魂は別の世界へ送らなければならないという宗教上の理由で、どこのお寺も、同じ墓地内でも良いが同じ穴に一緒には入れられないと言われたことから、遺言と埋葬問題が持ち上がってしまった。

田舎で良い場所がないなら、私の今住む関東の地でも、と、さんざん探し回ったところ、ひょんなことから良い出会いがあった。
樹木葬(区画はあるが墓石は無くプレートのみ)の永代供養(お寺で毎年供養してくれるが管理費などが無料。30年後に遺骨を掘り出し合葬にする)で、動物と人間を一緒に埋めてくれると言う。しかも、大きなお寺なのに、普通の永代供養の4分の1以下の料金でとても良心的だった。

丁寧なやり取りが進み、安価だし土地も良いし、では先祖ごと全部移そうという事になって、墓石撤去と更地工事と墓地区画の返還、役所での手続きなどが続き、やっと改葬の手筈が整った。
人数分の区画を新しいお寺で購入し、ついでに生きている父の区画も購入し、将来、母の隣に埋められるよう設定した。


先祖の元々あった墓を撤去工事した日の夜、何をしたわけでもないのに、私は突然ギックリ腰になってしまった。
徐々に治っていったのであまり気にせずにいたが、墓の移転と先祖のことがチラリと脳裏に浮かんだ。
その後、元々の墓から掘り出した先祖の骨を、業者に頼んで洗浄・乾燥してもらい、新しいお寺に宅配便で送ったその日の夜、不思議な夢を見た。

実家が今の場所に引っ越す前に住んでいた一軒家に、先祖が20名ほど集まってきていて、和室で大きな長座卓を囲んで話していた。私もその場にいたが、顔も知らない古い先祖たちのようだった。
和室は家の廊下を行った一番奥の部屋の、そのまた先の、実際にはない空間の一室だった。

彼らは口々に「いやあ、良かった!これで安心して眠れるな!」「決まって、うまくいって良かったですなあ!」と話している。どうやら墓の移転のことらしい。
その中の1人が、「めでたいことだし、一杯やりますかな!」と、手でお酒のお猪口の形を作って見せたが、他の人たちは乗らず、「いやいや、もう帰るよ」「安心したからもうこれでいいよ」と言って、シュンとしたお猪口の先祖も含め、全員出ていってしまった。酒癖の悪い人が先祖の中にいたのかもしれなくて、なんだかそのやり取りもリアルに思えた。

目が覚めてからもくっきりと覚えている夢だった。
大変だった墓じまいも、きっとこれで良かったんだなと、私は確かに思えた瞬間だった。


今までずっと、先祖を思い出したり、墓を大事にしたりということは特にない毎日で、実家の小さな仏壇でさえあまり気に留めずに暮らしてきたように思う。
でも今回、墓についてのそもそもをよく考えたし、供養ということの知識も入り、たくさんの人達との話の中で、なんとなく湧き上がる気持ちがあったのは事実である。

私の中に脈々と血が流れ、私を生かそうとする何かの存在があること、生きることの根源を自分でコントロールできないということがまさに生かされているということだという考え。私が生きているのはたぶん、それぞれの先祖が命がけで生きてきたことの結果であるという真実。
それこそが、単なる「ありがとう」という思いとは違った、奥深さから湧き上がってくる「感謝」に繋がるのかもしれない。
生まれてくること自体は、赤ん坊の私が明確な意思を持って決めたことではないけれど、巡り巡って誕生することになった私の人生は、きっと貴重な運の積み重なりなのだろうと。そこに湧き上がる思いとその運の不思議さを、言葉にすると「感謝」なのだろうと。

先日の総裁選の候補であった高市さんのスピーチが、たたみかけるように私に響いた。
「私たちが今いるここは、誰かが命がけで守ろうとした未来です」
母の遺言がなければ、遺骨は既存の墓にとっくに埋葬されていたはずだった。
それがこんなにバタバタすることになったということは、考えようによっては、私が自分について深く考えることを、母が命がけで教えてくれたということになる。

墓が大事なのではない。
埋葬方法や埋葬場所が大事なのでもない。
誰が墓守を受け継ぐかも関係ない。
結局、続く血の中で自分はいったい何者なのか、そこから何らかの溢れる思いに気づくことが必要であり、今の自分を一生懸命生かすことが、誰かのために命をかけることにつながるのだ、と思った。


感謝という言葉は、実は今まで好きではなかった。
何にでも感謝感謝と、薄っぺらい印象の言葉だった。
感謝するって、お礼をすることだと思ってたから。
ありがとうと思うことは、何かを誰かにしてもらったことの対価のようなものだと思っていたから。
全然違った。
何もないところに、ただ自分がそこに在るだけで、誰かからのかすかな祈りのようなものが届き、知らずに溢れてくるものだったのだ。

こうして何か深いものに触れた時、私はふだん表層だけで生きてるんだな、と思い知らされる。
でも、まだ知らないことを求めさえすれば、それは現象となって現われてくる。現象を通じて、少しだけ真実を知ることができるみたいだ。
私はこの世にいるうちに何を求め、あとどれだけの気づきをこの手に掴むことができるだろうか。
そして、拙い言葉をどれだけ残していけるだろうか。



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