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『終わりの日に』

さっきからミツコは、となりの席の男女が気になってしかたない。

「君とは結婚はできないと思う」
すぐ横に目を走らすと、少し歳の離れたふたりに見えた。
最後にひとりになって静かな場所で考えたいと、このカフェに来たのに、今日はとんでもない誤算だった。

「私のこと、本気で好きなのではなかったのね」
「そうじゃないよ。好きだからもっと大切にしていたいんだ。結婚がすべてじゃないと思う」
男の顔は真剣に見えた。そして、女はすでに聞く耳をもっていないようだった。
とうに冷たくなってしまった濃い土色の飲み物を、ミツコはごくりと喉に流し込む。あの時のリュウイチの目も真剣だった。まっすぐにミツコを見つめていたのを思い出す。

「君とはもう一緒に暮らせない」
「私のこと、好きじゃなくなったのね」
「そうじゃない。このままじゃ、僕らはただ日常を消費していくだけだ」

結婚なんて、一種の狂気だ。
結婚式ではあんなに幸せそうなのに、いざ日常生活を始めてみれば、それは単調な毎日の繰り返しに過ぎない。
でも、そういうものだと思っていた。高波のような幸福感はないかわりに、単調でも安定した暮らしが毎日必ずやってくる。約束せずに明日も会えるというふたり。
それの、何が違ったのか。ワタシがいけなかったのか。

となりの席の女は俯いて肩をふるわせていた。泣いているのだろう。
ミツコは突然目の前のテーブルに向き直ると、夫から渡され、長い間持ち歩いてクシャクシャになった紙にすばやくサインをし、横の欄に印鑑を押した。
すぐにバッグにしまえば、折りたたんだところに朱肉の赤色がついてしまうかもしれないと思ったが、もうそんなことはどうでもよかった。

カフェを出る前に振り返ると、男が泣いている女の肩を抱き寄せるのが見えた。でもそれも、ドアの外の眩しさの中で、すぐに忘れてしまった。

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