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全身にさぶいぼが立つほどの影響力は、現代では享受し難い喜びとなった

圧倒的な力の前で、ただ手放しに「すごいな」と思えることは、人間にとっての喜びだと思う。

少し頑張れば追いつけてしまいそうな、自分の力で敵いそうな相手には対抗しようとする思いが働いてしまうけど、明らかに届かない力の凄みを浴びると、ただ感動するばかりになる。

その喜びや感動を見せつけてくれる何者かが常に心のそばにある状態だったり、救われるという体験を一度でもしたら、それを信仰しようという気持ちが湧くようになる。そして、それが生きる意味になったり、信者である自分の価値にもなる。

信じていられる、信じてもいい存在があるということは、生きることへの救いになる。人は何かを頼り、時には何かのせいにするために、大きなものを信仰したがる性質を持っていると思う。

映画館でチケットを買うとき、成人以上の非学生は「一般」という枠組みになる。称すれば私たちはみんな一般人である。しかしその枠組みを、どうにか上回りたいと足掻くものたちがいて、そしてそれらの人たちは総じて影響力を持とうとする。
その結果、メディアに載るほどの有名人ではないが、一部には自分の信者を持っているというような階級の人間が増える。そのうちその階級でも新たに一般という枠組みができ、さして珍しいものではなくなる。
どうして有名になったのか理解はできないが、いつの間にかSNSやサイトでは上位に表示されるような、一般人とも有名人ともつかないあいだの人間を評価するものが現れては消え、を繰り返す。

「人気らしいから見よう。」
「みんな良いって言ってるから買ってみよう。」
「なんか周りが悪いって言ってるからあいつは悪いやつだ。」

そういった情報に流されていることが当たり前になっていくうち、何が自分にとって良いものなのかという価値の基準を、自分で持てない人が増えるように感じる。

さぶいぼというのは、そういった他人の評価ありきで物事を見たときには立ち得ないものなのではないかと私は思う。
生で物事と向き合い、自分の信じる五感で実感し、そして自分の脳で理解した時に初めて生理現象が起こるほどの感動が得られるものではないだろうか。
映画に感動して涙が出そうになっても、周りが泣いていないと堪えてしまうとか、逆に周りがみんな泣いているから空気を読んで泣きマネをするとか。

狭くて微弱な影響力が普通となっているこのままの状態では、全人類さぶいぼEDになってしまうではないか。


今なにが社会で影響力を持つのか、という動きを追っていると、その時代の文化が生まれる瞬間がよく見えてくる。

人々はいつの時代も、根本では解放されることを求めている。解放されたいから自己主張をする。現状に不満があるから声を上げて、自分以上のものに憧れるから足掻く。
しかし時と共に、なにごとも規制が厳しくなり、どんどん私たちは刺激あるものから隔離されている。
人間は、見慣れたものを見ると安心するようにメカニズムされているから、出る杭をとにかくボコボコにぶちのめしたいという流れがすぐに生まれてしまうけれど、それを正しいものだと暗黙のルール化してしまう働きはいただけない。
ポジティブな影響力を持つはずだったものを殺して、当たり障りのないものをこの世に増やす行為は、決してありがたがるべきものではないと思う。


見慣れたものではなく、言葉を尽くしても表せないほど新鮮で圧倒的な感動。つまりさぶいぼが立つほどの感動をくれる何かが、ここ数年明らかに枯渇しているなと感じる。それとも私自身のさぶいぼの感度が鈍ってしまったのか。刺激が足りないよ。


批判されるのは誰しも嫌いだし、認められたいという思いがある。
だから、受け入れられそうな、許されそうなものを作って満足するようになってしまう。そしてそれが評価されると、抗うことをやめてしまう。

同時に、自分が飲み込める範囲の易しいコンテンツばかり選んでしまって、価値観を揺るがすようなものを避けてしまうようになる。自分に関係のない物事にはひときわ無干渉になっていってしまう。

本来は刺激が必要な人たちが、雨風にさらされることを避け続けて、成長すするはずだった感覚が未熟なまま大人になる。

鈍い感性のまま歳を取り、同じ場所を往来するだけの意味のない経験だけが積み上がり、そして偉くなってしまう。若くて新しい生き物を否定する力を持ってしまう。
傷つきやすい柔らかな感性は、否定されることを恐れて、鈍い大人の顔色を伺った仕事しかしなくなってしまう。凝り固まる。

そんなつまらない繰り返しが、仕事でも社会でも常々求められているのを感じる。






この間、X JAPANが全盛期だった頃のライブ映像を見る機会があった。
その時久しぶりに、さぶいぼが立つ感覚が蘇ってきた。最近完全に忘れていた感覚だった。スマホの中で完結するコンテンツを見ているだけでは、なり得なかった感情になった。

私はその映像から圧倒的な力を浴びた気がした。気が狂ったように飛び跳ねる観客。目の前の存在を、聞こえる声を、一心不乱に信仰する姿。人々が求めるものを、確かに与えているという者の特有の輝き。見る人を服従にも似た気持ちにさせる、果てしない影響力がそこにはあった。

私のさぶいぼが最近立たなくなっていたのは、私自身の感度が鈍っているからかと思っていたが、そうではなかった。
私はあの頃に生きたわけでもないし、人の評価越しにそのライブ映像を見たわけでもない。なのに、感動した。


人はなにごとにも慣れて、順応して、強さを覚えるのかもしれない。さぶいぼという現象は恐れにも近い反応だから、時代を経るごとに、年を追うごとに、得難いものになっていくのかもしれない。だからこそ、私は私の心の感度を、もっと試してみたいと思うのだ。過去のものを見て、その感覚を思い出すようなことじゃなく。次は私と同じ時間を生きるものごとの、リアルタイムに期待したい。


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