寂しさで死ぬのはうさぎだけじゃない
僕は誰かと一緒じゃないと生きていけないです。そう強く思うのは、ひとりで生きていく選択肢が見えて来てからでした。
必然的に家族の干渉があった実家暮らし時代。学校に行けば大勢の友達。ほぼ毎日遅くまで部活。むしろ、寂しさを感じる余裕も無く過ごしていました。
転機は高校時代。野球部を辞めたときに、自分の居場所が突然無くなったことを痛感しました。学校に居ても、自分だけ隔離された空間に居るような感覚。野球部の友達とも疎遠になり、他の友達が接しづらそうにしてるのも感じました。伸びていくのは坊主頭を卒業していく僕の髪の毛だけではなく、友達との距離も然りでした。
僕は小さい頃からお笑いキャラとして、クラスでも一番騒いでるタイプであり、常に誰かと行動を共にするタイプでした。きっと大人なっても友達に囲まれながら幸せに暮らしていたり、大好きな人と結婚して子どもにも恵まれてハッピーで埋め尽くしてるんだろうなと、信じて止みませんでした。
ですが、高校で予期せぬひとりを経験してからと言うもの、ひとりで居ることが怖くなりました。怖いのは一人ではなく、独り。きっと自分は皆んなに愛され続けられるんだという、自信と過信で構成された無根拠な牙城が、野球部を中途退社したことで崩れてしまいました。そしてそれにより僕の精神は、完全に原型を失ってしまいました。それ以降、孤独を感じるだけで呼吸が荒くなるようになりました。ご飯もたくさん戻してしまいました。せっかく伸びてきた髪の毛もたくさん抜けました。死にたくなりました。今思えば、あの時は躁鬱だったのかもしれません。
この症状は治らず、大学受験の二時試験前夜でも前乗りしていたホテルで過呼吸を起こして、結果をダメにしてしまいました。受験会場で、机に伏して、声を殺して泣いていたのを今でも覚えています。あの日は今でも忘れられない。僕は独りでした。
どうにか入った大学は、関東でした。地元北海道からのスーパージャンプ。ひとり暮らし必至の選択肢が迫って来てしまい、フラッシュバック待ったなしの環境は目前。そこではどんな人物たちと出会うのだろう。住民票上でもひとりになってしまった悲しみが多めの悲喜交々な感情が、空っぽな僕の中で渦巻きました。地元の交友関係も無い土地で、僕はここままひとりで生きていくんだと悲観し、視界がグレースケールのまま新生活がスタートしました。
大学と言うこともあり、僕と同じく、地方からひとり暮らしでやってくる同級生が沢山いました。大きいサークルに入ったため、友達はそれなりにできました。新しい環境でも必死で生きているみんなと一緒に、度々お互いの家に遊びに行き合いながら過ごしました。
SNSを見れば、誰かが誰かと遊んでる投稿、誰かの家で宅飲みしている投稿。学食を見ても、ほとんどの人が友達と過ごしている。サークルにも頻繁に通うし、家に帰ってからも連絡をとる。そんな皆んなを見て次第に、「あっ、みんな、僕と同じなんだな」と安心したのを覚えています。
皆んな、ひとりは寂しいんだなって。
昔の自分は、自分だけがひとりなんだと思い込んで、世界から突き放された感覚に勝手に陥ってしまっていたのだと、今になって思います。きっと人は皆んな寂しがりで、いつだって誰かの存在を感じて居たいし、誰かにとって大切な存在でありたいと思っているんだと思います。この気持ちは皆んな同じであるはずだから、たとえ会えなくても、きっと皆んなあなたのことを考えている。愛されたい人は、誰かを愛することもできる。生きていて、独りでいる時間なんて存在しない。
『一人』の時間は大切。だけど、『独り』の時間は必要ない。『一人』で生きていく選択肢はあっても、『独り』で生きていく選択肢はあってはならない。
大好きな人が独りぼっちで居ないよう、一人きりでちょっとだけ寂しい夜に、願いを込めてあなたのことを考える。どうか悪い夢を見ないように、こたつじゃなくてちゃんとベッドで寝てくださいね。
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