第159回 右大臣を辞する の巻
当時の貴族は昇進の勅令を受けると、形式的に1、2回辞退してから受けるのが通例でした(まどろっこし~!)。
しかし道真は右大臣に「なってから」3回も辞表を出しています。
その辞表文は現在でもすべて見ることができるのですが、本気で辞めたがっていたのがわかります。
辞任理由は
●自分は学者、右大臣をやる家柄でない(この当時は家柄がものすごく重要)
●たまたま宇多上皇に抜擢されただけ。もっとふさわしい人がいる
(もっとふさわしい人=藤原or源氏)
●周囲の誹謗中傷、激しすぎて耐えられない
・・・ と、悲痛な文章が並びます。
しかしすべて却下されます。
右大臣がダメならせめてというので兼任していた右大将の辞表も出してみますがこちらも却下。
もちろん醍醐帝は独自で判断せず、宇多法皇に相談したことでしょう。
宇多にしてみれば藤原摂関家への対抗として道真を抜擢しているわけで、辞表を受け取るわけにはいきません。そもそも母の班子女王が許さないでしょう。
道真は針のムシロで右大臣を続けることになります。
のちにこの時を回想して「右大臣でいるとき、楽しかったときは一度もなかった」と述べています。
菅原道真といえば『中級役人・学者からトップの右大臣に昇りつめたすごい人!』というのが現代の一般的な認識。しかし本人は右大臣をやめたくてやめたくて仕方がなかったんですね。華々しいサクセス・ストーリーとはほど遠いものでした。
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簡単に「辞表」とはいうものの、現代の感覚とは大きく違います。
当時の辞表とはつまり「天皇の期待に応えない」ことを意味するわけで、辞めるにも気を使いまくりです。
道真は先のボイコット事件の時も宇多帝に「学者に戻りたい」と訴えていますがダメでした。かといって、あまりしつこく訴えると「朕を捨てるのか」と言われてしまう…。