埋まらない距離を埋めたいと願うこと

優しさとは何かを語るには、僕自身の定義する人間同士の相互理解について明らかにする必要がある。

僕の思う相互理解は、「人間がわかり合うことは原理的に不可能である」という命題に立脚する。これは決して悲観や諦観ではない。ヒトは互いに独立した個体として別々の脳を使って思考している以上、「あなた」と「わたし」はニアリーイコールにはなれど決してイコールになることはない。限りなく近づくことはできても決して交わらない。通俗的な漸近線の定義と同じだ。

では優しさとはなにか。僕の答えはこうだ。
「人間の相互理解が本質的に不完全なものであることを理解しながら、それでも誰かとわかり合いたいと願い歩み寄ろうと足掻く信念、あるいは覚悟」

「わたし」と「あなた」の間にはどれだけ近づいても決して埋まらない距離が存在する。生物学的な文脈でそれを埋めることは不可能といっていいだろう。だが幸いにして人間には想像力という最強の切り札がある。自分以外にも主観が存在することを本当に理解することができれば、想像力は「決して埋まらない距離」を埋める助けになるはずだ。

誤解してほしくないのだが、これは決して相手の心に土足で踏み入ることを是とするものでもない。まして自己犠牲的な献身を意味するものでもない。
一方的な歩み寄りは往々にして無自覚な悪意となる。逆に義務的にすべてを受け容れるようとすることは自分を追い詰めることになる。

自己と他者が全く別の存在であること、そして同様に尊重すべき存在であることを知ることが「優しさ」の出発点だと思う。




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