見出し画像

お正月気分にはほど遠い年始日記

(今回も雑記をまとめただけの日記。一週間分なので長いです。)

2021/1/4

友人の家にお呼ばれ。
いつもInstagramで夜に眺めては可愛いなあとでれでれしている猫に会えてうれしかった。
家主のセンスや雰囲気に包まれてほっとするような家で、こんな場所が作れたらいいのになと改めて思う。
私はお部屋を自分が良いと思えるようなセンスの良い場所にすることがどうしても昔から苦手だ。(見ればそれが好きか、またはどう自分の好きから外れているかは言えるのに、ゼロからものがつくれないというのはこういうところなんだろう。片付けが苦手、というのとはまた別の問題。)
けれど今の家は、もともとの古い家の雰囲気と、彼の手作りのものが多いこともあってなかなか楽しい雰囲気になっている。
引っ越す前の小さい家の巣のような包まれ感も好きだったので、時々肌感覚として思い出す。

2021/1/5

夢の続きが気になって朝ぐずぐずしてしまった。二度寝しても続きを見られるわけでもないのに。
午前中はしっかりめに掃除をする。
昨日の友人の家の、植物があちこちに置いてあってそれでもちゃんと居場所を持って座っているような感じがとてもいいなと思ったので、植物のブースを整理。
引っ越してきてから庭に置き去りにしていた鉢をいくつか部屋に引き入れて窓の近くに置く。サボテンや多肉はまだ庭にある。さすがにフランスの冬は寒いので近いうちに引き入れなくては。
窓が開けづらくなるのは嫌なんだけど、光はいっぱい浴びさせてあげたいから天井から吊れるようなシステムを作らないといけない。
前の家みたいにカーテンみたいに動かせる吊り具にするのがいいだろう。

朝から洗濯機を回しているが、かれこれ2時間も回っている。
30分モードの隣りにあったからこれも短い時間のものかなと思って「ジーンズ」モードを選んだんだけど、ジーンズってあまり洗わないものなんじゃないのかな。2時間も洗っては脱水、すすいでは脱水、ってしてる。
新しいジーンズをダメージジーンズにするモードだったのかもしれない。

13:56
庭にはクリスマスローズが咲いていた。
地面のぎりぎりで咲いているものだから、顔が見えない状態のものがみっつ。花びらは白くて灰紫の脈がある。もう少し高いところにもふたつ、ぐっと蕾が膨らんでいた。
クリスマスローズの株は転々と5箇所くらい根を張っているのだけれど、花びらが赤い色のものもある。開くのが楽しみだ。
終わりかけの南天をちょっとだけ切ってきた。

16:54
家の中のものを全部家の前に並べて写真を撮る作家が気になった。
黄庆军 HuangQingjun さん。

21:51
消耗品の買い物に時間をかけてしまった。
一休みにFacebookを開くと高校時代の友だちがお子さんと一緒に写っている。
当然ながら年は重ねているんだけれど同時にぜんぜん変わっていないという感覚があってそれはどういうことなんだろうとぼんやり考える。
確かに時間が経ったなりの変化した顔がそこにはある、けれどその芯に見えているのはあいかわらず昔の面影というか残像のようなもので、それは私がただ覚えているだけなのか目の前の顔のなかにそれがあるのか、目をこらしてみても良く分からない。

0:43
疲れた年末年始のお腹を休めるためにも夕飯は簡単に、ご飯と具をいっぱいいれたお味噌汁。
梅干しとか漬物とか佃煮とか、そういうちょっとした副菜を常備しておきたいな。漬物は甘酢漬けとか塩漬けとか乳酸菌発酵とか試してみているものはいくつかあるけど、梅干しとかぬか漬けとか味噌とか納豆とか、そういう手を出していなかったものも少しずつ手作りしていこうかな、屋根裏にはなんらかの菌もいそうだし。

2021/1/6

17:38
メールの整理をしていたら2012年の「風の旅人」の佐伯さんからのお便りに原始感覚美術祭に関する記述があった。
去年アイスランドで原始感覚美術祭の主催のおふたりと仲良くなって声をかけてもらっているのだが今年は断念。来年も果たしてどうだろう。でも遠からず参加できたらいい。
9年前にこうして無意識下で繋がっていたことにはっとする。

19:12
今日はポトフ。
煮込んでいる間『忘れられた日本人』を読む。
作者が訪ねた村では、決め事や揉め事などがあったとき代表が集まって2晩でも3晩でも続けざまに行う寄り合いのようなものがあったのだそうだ。
主題だけを話題に詰めてゆくというよりは、派生して上がってきた話に寄り道したりふと思い出された昔話が枝葉をふくらませたり、本題とその周辺をゆきつもどりつしながら話がいつのまにかまとまってくるらしい。
気の長い話ではあるが、ものごとを考え解決するということの本質をついている。

2021/1/7

12:19
パソコンの作業環境を整える。Googleカレンダーやnotionや環境の必要な設定をしたり、いらない拡張機能を削除したり。

「こういう感覚こそ言葉にできたらいいのに」というものが自分の中にあって、そのなんともいえない感覚を壊さぬまま明瞭に掴みだし言葉にできる人に興味を持つ。
けれどその人を追っているうちに思想や嗜好の違いの大きさに気づくようなことがある。その感覚にはそぐわない(と私には思われる)大衆迎合的なものを称賛していたり、次第にある方向に凝り固まっていったり(その人が変わっていったのか私が盲目だったのかはわからない)。
以前はそれを理由に自分の関心がその人物から離れたり(または離していこうと)したものだけれど、今はそういう自分勝手な好きになり方はしないように意識するようになった。それは本当に最近のことで、もしかしたらこの1,2年の変化かもしれない。

世界は右か左かではない、白黒では語れない、色んなグラデーションの中で生きたい(し、生きてほしい)、と口では言いながら、私自身にはそれを本当の意味で受け止めるには頑なすぎる部分があるかもしれないことも意識していて(だからこそ広く色々受け止めたいと口にして自分に言い聞かせたくなるんだけど)、誰かの何かを良い、好きだ、と思うことに、それこそそういう自分の中の器の小ささや依存や束縛のようなものを投影するのはなるべく意識的にやめよう、と思うようになった。
他人は他人であり、好きになったからってその他人の部分を認めないというのはまったく自分の側の問題でしかない。その人が自分の思ったひとじゃなかったという気持ちと、その人のある部分を面白いと思えることは、別だ。

当たり前のことすぎて自分はとっくにそれをクリアしている、と思い込んでいることを、実は見に染みては理解しきれていない、実践しきれていないということが、わたしにはいっぱいある。
潔癖すぎる部分とかゼロか100かみたいなところとか思い込みの激しさ、すぐ自分に引き寄せて考えようとしてしまう、他人をジャッジしようとする…そういう怖がりな性質が色々実践させず、見えなくさせているのかもしれない。

自由で大きくいようと思っても、結局引き止めているのは自分なのだから困ったことだ。困ったことでもあるし、自分自身が気づいて変わればいいだけとも言えるし、それがやっぱり難しいんだよ、とも言えるし、やれやれだ。

変化できることこそを喜びながら一方で一貫性について厳しくジャッジしてしまったりすることもあるこの矛盾。
でも多分これは言葉にして定着させないのがいい。そこにある含みをすべて言葉にしきれるわけはなくて、何が私の中でOKで、何が☓なのかを分析しようとすると言葉を使った世界、分類の世界になるから、もっと全部が溶けたところにしばらく浮かばせておくのがいい。

こういうことをことさらに考えるようになったのは、パリでの2015年のテロの後に多くの人がSNSのプロフィールをトリコロールにしていたり、今回のコロナで医療従事者に拍手しながらバカンスには浮かれて旅行にいってしまう人々、Twitterで毎日のように話題になるハッシュタグが変わり、炎上しては忘れられてゆく人や事件、そういうものを見ながらだったというのは、自分の中で覚えておきたいこと。

16:49
昼過ぎに病院に行ってエコグラフィーの予約を取ってきた。
この間の血液検査の結果は今日の6時に出るはず。

23:33
『映像で見る20世紀 疾走する日本、光と影 1960~1975』を見た。
私が生まれる前の10年くらいの間に学生闘争があり、ベトナム戦争があり、オイルショックがあり、公害病が多発し、沖縄が返還され…
若かったころには当時の映像を見ても自分とは無関係の「うんと昔の懐かしい映像」にしか見えなかったが、今見ると子供時代の記憶と地続きだという感覚がある。
私が生まれたのはいわゆる「戦後」とは無関係の時代かと思っていたけれど、こうして50年も経ってから見るとひと連なりの一部だ。

2021/1/8

15:42
今日は11歳の友達への日本語授業。
3回目になるけれど最後の授業が2度めのロックダウンより前だったので、またいちからやり直すような感じ。
notionを使って授業の資料を作成するのはいい。楽というのもあるけれど、自分自身の勉強にもなる。知識をふくらませつつ、あれこれ寄り道しつつ、その全部を記録してゆけるのがいい。
手で何か書きたい欲も相変わらずあるのだけれど、とりあえずは今このやり方が楽しいのでこちらに集中してみる。

19:20
帰宅してすぐフィードバック、次回の授業に活かすようにする。
多数への授業と違ってマンツーマンの授業ではどうしても「私が渡し、生徒は受取るのみ」というふうになりがち。大勢いると周りの言ったことがヒントになって理解が膨らんだり先生の意識が他にある間に考える時間を持てたりするのに。
今日はゲーム要素や心理テスト的なことで語彙を増やすことを目論んでみたのだけど、ちょっと複雑すぎたよう。毎回発見がある。
勉強の経験が浅くてピンとこないことと、フランスと日本との違いが原因でピンと来ないこと、そのふたつの区分を私の方でもっとはっきり切り分けて認識して、対策を立てないと。

自分の見ている世界は自分の選んできたことで構成されていて、そこの中で起こることは他の世界を見ている他人にとっては決して私と同じようには見えていない。
そういうことを、このことでも、発見する。

22:20
帰ってきてから少しだらだらして、それからVISA更新の書類を揃えた。
あとは家の書類を揃えて、パスポート用写真を撮るだけ。
以前は最寄り駅にphotomaton(映画『アメリ』でおなじみの)があったのだけれどさて。…と調べてみたらサイトがあった。ちょうど土曜日に寄る病院のすぐ近くにある。
https://reseau.photomaton.fr/

2021/1/9

発酵食品をもう少し取り入れたい。
ザワークラウトは時々作っているし野菜の酢漬けも作っているけれど、麹とか糠味噌とかがあったらなあ…とよく思う。日本にいればすぐ手に入るんだけどな…(パリでも手に入るみたいだけど高い)
今日は塩だけで作るピクルスを仕込んだ。
昨日のさつまいもの炊き込みご飯があるから、今日はトマトとごまみそとセロリの葉の和え物、ししとうを焼いてじゃっと醤油をかけたやつ、ズッキーニを輪切りにして片栗粉をまぶし卵にくぐらせてかりっと焼いたやつ、それから玉ねぎたっぷりのお味噌汁を作ろう。
あとはししとうを焼いて、味噌汁かな…味噌汁になすも入れてしまえ。

18:24
薄くなってきたズボンにつぎを当てたり、靴下を繕ったりするの、全然縫い目の綺麗さとかを考えなくてもただただ糸を打ち込んでゆけばいいから楽しい。没頭していつのまにか頭が空っぽになっている。
針を刺して抜くだけなのにその2つのポイントと糸の関係だけでいろんな絵ができる。思わぬV字ができたり予想した線ができなくてあれっと思ったりする。あれっと思ったり、手の形を工夫したりしながら、布の薄くなった部分に手応えが生まれるまで糸を入れ込む。

頭を空にしているようで実際は色んな細かいことを考えている。森のことは忘れているけれど、そこにあるいっぽんの樹の皮を剥いで、隠れていた虫を見たり古い肌と新しい肌を指で触っているみたいな。

1:03
ちょっと前から瞑想にトライしてみている。
舞台本番前日にはいつも1時間くらいしっかり瞑想をして集中力を高めたり緊張や恐れを受け入れるようなことをしてみているんだけど、実はこれを瞑想と呼んでいいのかよくわからないなという疑問を持ち続けていた。白昼夢とか幽体離脱に近いものになってしまうので何か違うような…。

潜在的な部分にある問題も可能性もすくいあげるためには日常的に瞑想をしてみるのがなんとなく良さそうだなあとはずっと感じていたのだけれど、きっかけもないし、とにかく何かを続けるということが苦手なので後回しにし続けていたのだが、ちょうどNetflixに瞑想のための動画があったのでお試しでやってみている。
導入さえ教えてもらえば、あとは自分なりに追求してみればいい。

2021/1/10

20:55
今日は昨日のピクルスに続き、水キムチやザワークラウトを作る。
以前の家はなかなかものの管理が難しかった(何にでもカビが出るし、狭くて保存瓶も用意できなかった)ので保存食を作るのがためらわれたが、ここの家ならそういうことができそうだ。
本格的なキムチとか味噌、梅干しも作りたいけれどまずは手始めに。
今度中華街に行く時にだし昆布とわかめ、ひじき、春雨、豚ひき肉、ごま油、梅干しを買ってこないと。
今度日本に帰った時には麹と糠味噌も買ってくるぞ。

0:47
youtubeの番組を見て、ゲーテの『色彩論』を読みたかったことを思い出す。
しかしゲーテがニュートンの説を否定したり、創作人生の1/3は色や光の研究に費やしていたことを全く知らなかった。『色彩論』にしても文学的・感覚的視点から書いたものだとばかり思っていたので…。実際にはもっと認識科学に近い視点だった。

もし人生が何回かあったら、そのなかのひとつで、色に携わる仕事をしたかったな。染色とか岩絵の具を作るとか、…あと何があるかな。
色を見分けたり、色とは何かを追求するのとても興味がある。


ブログを読んでくださって、嬉しいです!頂いたサポートはこれからも考え続けたり、つくりつづけたりする基盤となるようなことにあてさせていただきます。