会話をコントロールしようとしてしまう
会話がはじまるとその断片がこの先どういうふうに積み上がって、どういう範囲にまで広がって、ここにいるひとそれぞれがどういった反応をするか、一瞬一瞬予測する。
たった今発された言葉が手元の積み木となって、その先に見えない積み木を一瞬で展開するような。
もちろん私の見ている積み木は一瞬一瞬どんどん姿を変える。順調にそのとおりに構築されてゆく瞬間もあるけれど、たいていは、一瞬一瞬打ち壊してはまたがらりと違う立体に着手する。またそれも崩されて別の方向に構築物は延びてゆく。
その構築物はただ立体的にそこに現れるのではなくて、時間を引きずっている。
目の前で進んでいる会話の、その全体の(いまだ確定していない部分も含めて)どの時点にわたしたちはいるのか。鳥のように俯瞰して、時間尺も含めて眺めながら、同時に目の前の、今現在発されている言葉にも集中する。
途中でよそから何かが割り込んできてもともとの会話が立ち消えになってもわたしはしばらく元の建物にしっぽくらいを触れさせておく。
新しい会話が別の立体を構築することにも集中しつつ、しっぽで以前の場所をそそそと撫でておき、またそこに帰る機会があったらふたつの立体のあいだを架橋する。
その場の全員が会話についてきているか気になって、それとわからないように表情を見たり必要とあらば気づかれないように翻訳してみたりする。
よし、全員で次の階に上がれるぞ、となったら安心できるのだけれど、誰かがさまよいだしていたりしたら気になって仕方がない。顎のうしろのヒゲくらいをそっとそちらの方に向けてもっと落っこちてゆかないか見ておく。
きっとこのひとはこういう投げかけ方をして、話がこういう方向に進むことを期待しているんだな、ということを察知した時には、話がそこから乖離してゆくことにずっと最後まではらはらしてしまう。
当然そういうことをしていると、人数が増えればふえるほど疲れる。
まして私は人の声と他のあらゆる音を判別して聞き取るのが苦手なので、4,5人以上で話す時には針穴に糸を通すくらいの集中をずっと持続している。
お腹は痛くなるし頭も痛くなる、だんだん耳は聞こえなくなるし、呼吸も浅くなる。歯だってずっときつく噛み締めている。
でも最近、フランスのひとと会話をするようになってからかそれとも一番身近にいるひとがそういう話し方をするからなのか、会話なんてもっとダイナミックにあっちこち行けばいいし、いちいち繊細なビーズを数珠つなぎにするような神経の使い方をしなくったって、耳の穴を大きく広げてなんとなくそこに入ってくる音をひろってりゃあいい、みたいなふうなこともちょっとできるようになりたいと思うようになってきた。
別に全部の話が円環しなくったって良いじゃない。
言いっぱなしのオチのない感じになってもちっともきまり悪そうにしていないもの、それで良い。
急に投げ込まれる無関係なことがその場に大きな展開を生んで、スリリングに滑ってゆく、ぐっと違う次元に進む、そういう会話の方が、いろんなことが生まれてきて楽しいかもしれない。
そんなことを考えていると、+MさんがこんなTweetをしていてふふふとなった。
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