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外出禁止令から1ヶ月

家に閉じこもりきりになってそろそろ1ヶ月が経つ。
10日目くらいから、自分がいったい毎日何をして過ごしているのやら、だんだんわからなくなってきた。
世の中の状況も気になるし、本も読みたいし、映画も見たい。この時期だけ公開になっている舞台の動画やドキュメンタリーも見ておきたいし今を機会にいるものいらぬものの選別や掃除もしてしまいたい。毎日のあれこれを書き付けてもおきたいし、家に居ながらにして友人たちと共有できるなにかについて考えてみたい。受けたことのないようなレッスンをネットで受ける機会にもチャレンジしたい。料理への苦手意識も払い去りたいし、語学の勉強もこつこつしておきたい。
頭でっかちになって、ひとつもものに手をつけられないまま、やりたいことが垢のように日々に溜まってゆく。
だいたい私は、勉強ひとつ始めるにしてもまず「何のノートにどんなふうに書こう」「どのペンで書こう」ということに時間を割いて一日が過ぎてしまうようなところがあって、学習教材も「この動画はいまいち興味が沸かない」「もっと面白い内容があるんじゃないか」とあさっている間にどんなものでもいいから進めればいいものを、結局ひとつも勉強に踏み込まないまま疲労したりお腹がいっぱいになってしまう、ようなところがある。
子どもの頃比較的学校の成績が良かったのは、準備されたものをこつこつこなすことを楽しめる性格が幸いしただけで、まことの勉強ができていたわけではない。

この生活のはじまったあたりで目標とした「規則正しい生活を計画することと、料理の幅を広げること」の「料理」の方は少しずつでも進行中だが、規則正しい生活の方はなかなかどうにもならない。
「頭の中で考えてからおしゃべりしましょう」「計画性がない」と4つの頃から言われ続けているのだから、きっと私という人間は"準備"という概念をこの身に実感できぬまま人生を終わるのかもしれない。
誰に会うわけにもいかないし日中はほとんどひとりで過ごしているのだから全ての時間は自分の思うようにできる、それなのになんだか気が急いたり、今やっていることよりももっと大事なことがあるんじゃないかとそぞろになって、挙句の果てについインターネットを開いたりしてしまう。

なにかに集中できる時間が極端に短くなっている。
なにかに集中し切ることができず、他のなにかに心を残しながらなにかをしている。
もっと有用なことをしなくてはいけないんじゃないか、今していることはいまにしかできないことか、こんなことをしている場合なのか、どっちつかずの心地のままことを進めようとして結局、没頭しないまま中断してしまう。
この心持ちはネットで情報を追う時と同じだ。
もっと良い情報があるかもしれない。もっと自分を深いところに連れて行ってくれるものに出会えるかもしれない。そうして情報を次々と手探り、乗り換えてゆく。

昨日は久しぶりにまとまった雨が降った。
大きな粒がほのかに温まった地面の匂いを巻き上げ、もう冬の雨じゃない。春を通り越して夏の始まりみたいだ。ずっと家にいて、夏休みのようだからだろうか。
窓を両開きにして雨を眺める。
窓のすぐ外はトタン屋根になっていて、その向こうに連なる大きな建物との間にアーモンドの梢が見えている。うちから見える緑といったらそれだけなのだけれど(我が家の観葉植物は相変わらずぐんぐん伸びているのだけれど、砂漠に生きる植物みたいに荒々しいものばかりが残ったので、観葉植物といって想像されるようなみずみずしさやたおやかさがない)、白い花もすっかり落ちて、今年は春の花をあらかた見逃してしまったと思う。
雨粒をくぐってなにかの綿毛が部屋に入り込んでくる。この大粒の雨に叩かれずによくここまでたどり着いたものだ。雨が止んだら飛ばそうと思って、手元の小皿に受けておく。
窓の向こうに広がるのが海や山や草原だったらと思う。
土の匂いや雨音のざわめきの濃度が変わること、吹かれる毛足の長い草、色っぽく濡れてゆく木肌、開いたり閉じたりする雲の切れ目、吹かれてくる葉や鳥、風が連れてくる遠い景色の匂い、そういうものにただ蒸されているだけでいい。
なにか他のことをしておかないといけないんじゃないか、なんて焦ることもない。
見るべきものや、考えるべきものごとを迷ったりも、しない。

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