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『Egg〈神経症一族の物語〉』第八章

  東京に比べてひんやりとした空気。刈り取りが終わり水がなくなった田んぼ。白菜やネギが等間隔ですくすくと育っている畑。その奥に紅葉した赤城山がくっきりと見える。
 季節に歩調を合わせて冬支度を始めている民家の軒下では、干し柿が簾のように大量に吊り下がっている。
 そんな懐かしい地元の風景を車窓から眺めながら、高藤恵美は息子の哲治を抱いて実家に戻ってきた。車を降りて門をくぐると、兄の妻である鈴木麻子が広々とした玄関口からかっぽう着姿でパタパタと小走りに駆け寄ってきて、恵美と哲治を歓迎してくれた。
「まあまあ、いらっしゃい。恵美ちゃん、かわいい赤ちゃんね」
 恵美が居間の畳に敷かれた小さな布団に哲治を寝かすと、早速子供たちが3人、わらわらと集まってきた。
「赤ちゃん、小さいね」
「あ! 叩いちゃだめだよ、花子!」
 清太郎と麻子の間には6歳、4歳、2歳の子供がいる。みんな女の子なのでもう一人作る、と今年の正月に話していたが、今日会ってみると、麻子のおなかはもうふっくらと大きくなっていた。
 一人産むだけであんなに大変だったのに、四人目なんて……と、恵美は思うが、子供好きの麻子にとっては何でもないことらしい。母の正子とそっくりな、いわゆるおふくろ的な肉付きの良い体形の麻子が、3人の女の子たちに一斉に話しかけられてもちゃんと一人ひとりの言葉を聞き分けて、あれやこれやと世話をしているのは奇跡のようだ、と恵美はいつも感心してしまう。
 
 みんなで早めの夕飯を食べた後、銭湯に行くことになった。正子が哲治の面倒を見てくれるというので、恵美は兄一家の清太郎と麻子と3人の子供たちと一緒に、水のない田んぼのあぜ道を白い息を吐きながら歩いた。じきにもくもくと黒い煙を上げている銭湯の煙突が見えてきた。
子供たちは清太郎と一緒に男湯に入ることになり、恵美は麻子と一緒に女湯に向かった。
 たくさんの女や子供が頭や体を洗っている洗い場で恵美も頭と体を洗うと、いそいそと湯舟に向かった。
 湯舟はあつ湯とぬる湯の2つに分かれていて、背景には富士山の大きな絵が描かれている。以前ここに通っていたときは、三保の松原と富士山の絵が描かれていたが、最近塗り替えられたのか、白い雪を山頂に抱いた真っ青な富士山が堂々と描かれた絵になっていた。
 恵美はぬる湯に肩まで浸かると、手足を伸ばし、ふうっとため息をついた。
「はあ、気持ちいい……広いお風呂なんて久しぶり」
 とろけそうな表情をしている恵美をにっこりと見やりながら、麻子が言った。
「初めての出産は大変だったでしょう」
 麻子のおなかは5カ月目だというのに、もう大きくせり出し始めている。これからの麻子の大変さを思いながら恵美が答えた。
「あんなに辛いとは想像してなくて。死ぬんじゃないかと思ったわ」
「最初の出産はみんなそう。死にそうなくらい痛いのに、病気とはやっぱり違うのよね。生まれてしばらく経つと、『あれ?出産の痛みってどんな感じだったかしら?』って、痛みを思い出すこともできなくなるわよ」
 恵美がびっくりして言う。
「えっ? 痛みを思い出せなくなるの? 私は今でも出産の痛みが体に刻まれている気がするけど……」
と言って、そっと自分の乳房に手をやりながら恵美は話し続ける。
「それに今もおっぱいが張って痛くて仕方ないわ。じきに母乳が作られなくなるからそれまでの辛抱だってお医者さんに言われたけど、熱をもって痛くって……」
 麻子が血管が浮いてパンパンに腫れあがった恵美の乳房を見てうなずいた。
「そうね。あと1、2週間もすればかなりよくなると思うわ。どうにも我慢できなかったら、産婦人科に行った方がいいんだけど」
「そうね、そうするわ」
 素直にうなずくと、今度はあつ湯に入ろうと恵美は湯舟で立ち上がった。ふと洗い場の曇った鏡に映った女性の姿が目に入る。麻子にそっくりな太った女性だ。次の瞬間、恵美は頭を殴られたような衝撃を覚えた。
「わ、私なの?」
 思わず洗い場に近づくと、その太った女性が自分であることがはっきりし、恵美は泣きそうな気持ちになった。
 つわりが辛くて、ブドウやナシをもりもり食べたこと。体重が20キロも増えたが、お医者さんからは元気な赤ちゃんを産むために必要なことだと励まされたこと。おなかが大きくなっただけで、産んでしまえば元のようなほっそりとした自分に戻れると楽観的に信じていたことが、頭の中でぐるぐると回転した。
 現実は厳しかった。鏡に映る自分は、たぷたぷの二の腕、三段腹になった妊娠線だらけの醜い腹部、はちきれんばかりの太ももと、巨大な乳房を持った、どこにでもいるおばさんそのものだった。
――――ダメ、ダメよ、ダメ! こんなの私じゃない!!――――
 このまま3か月後に隆治に見られたら、どれだけ幻滅されるだろう、と恵美は憂鬱な気持ちで考えた。自慢だったウエストのくびれがなくなってしまい、若さの無くなった自分を、隆治は女として認めてくれるのだろうか。隆治に愛されない私なんて、私じゃない。美しくない私なんて私じゃない。これから3カ月で元の体重に戻して、昔の美しい姿を取り戻すんだ!
鏡から目をそらし、恵美は手を固く握りしめた。
 
 それから恵美は食事を野菜中心に変え、雑誌に出ていた美容体操を熱心に始めるようになった。
 そして実家の両親が出産祝いとして買ってくれた最新式のベビーベッドに哲治を寝かし、そのそばでひたすら体操に明け暮れ、毎日毎日体重計に乗って体重が何グラム減ったかを記録し始めた。
 同時に、テレビや雑誌で育児についての最新情報も仕入れるようになった。それでわかったのは、哲治はわりとよく眠る子供で扱いやすい、ということだ。ベビーカーを押して散歩に行ってもおとなしくしているし、夜泣きもほとんどしない。しかも実家にいれば、母が育児を手伝ってくれるから、慢性的な寝不足も解消されていった。
 こうして出産後、ぎりぎりまで張り詰めていた自分の神経が緩んでくるのがわかると、恵美は段々と大胆になってきた。
 首が座るようになった哲治に、清太郎が赤ちゃん用のメリーをプレゼントしてくれた。ミルクもおしめも問題ないのに哲治が泣き止まないとき、メリーを回すと、優しい音とゆっくり回るカラフルなおもちゃに気を取られ、哲治は手足をばたばたさせて喜んだ。そのうちメリーだけだと飽きてしまって泣き出すことが増えたので、恵美はベッドの柵に紐を渡して、赤ちゃん用のおもちゃを括り付けて、哲治が手に取れるようにした。さらにおなかをすかせて泣く哲治に紐でぶら下げた哺乳瓶を持たせ、乳首を口に突っ込んでそのまま飲ませる芸当までやるようになった。
 添い寝をしなくても、恵美が気付いたころには哲治はベッドで寝ているし、相手をしてやらなくても、おもちゃがあれば勝手に遊んでいる。もともと可愛いとは思えずにいた息子が、まるで手がかからないのは恵美にとってラッキーだった。柵の中のベビーベッドに寝かせるばかりで抱っこすることもあまりなくなった哲治は、恵美にとって我が子というよりはペットみたいなものになっていた。
 
 最初のころは娘の育児をはらはらしながら見ていた正子も、哲治が泣き出さずご機嫌なのを見て、恵美の育児に感心した。
「テレビで見たんだけど、アメリカの赤ちゃんは夫婦とは別の部屋で寝るんだってよお。赤ちゃんが泣いても躾のために放っておくんだってさ。そのうち泣き止んで一人で寝るようになるらしいよ」
 夕飯の食卓を囲んでみんなで席に着いたとき、正子がそう話すと、麻子もうんうんとうなずいた。
「恵美さんの育児は、この前テレビでやっていたアメリカの最新式の育児法なんですよ。こんなに赤ちゃんが泣かずにご機嫌でいてくれるなんて驚きました。私も次の子は同じように育ててみようかしら」
 女性3人で盛り上がっていると、出征から無事に帰還して清太郎と共に一家を支えていた父の太郎が、コップに注いだ冷酒をすすりながら苦々しげに反論した。
「たしかに泣かねえけどよお、おらが赤ん坊のころおふくろはおらをおぶって畑に出たもんだ。子供なんて背負っておけばおとなしくしてるじゃねえか。柵付きのベッドにほったらかしにするなんて、哲治が可愛そうだ」
「んだなあ。昔ながらのやり方がおらには自然なことに思える」
と清太郎が同意して、父の空のコップに瓶から酒を注いだ。
 男二人の結託を見て取るや、正子が猛烈に反論し始めた。
「あんたたちは子供をおぶって働いたことがないから、そんなことが言えるんだよ! 畑仕事だけじゃねえ。洗濯したり料理したり、女はひっきりなしに働いているんだ。子供が上機嫌でおとなしくしてくれたら、どんだけ助かることか!」
「そうですよ!」
と麻子が清太郎をちらりと見る。
 肩身が狭そうな太郎と清太郎に向けて、恵美がにっこり微笑んでこう言った。
「テレビや雑誌を見ると、今まで知らなかった育児法が世の中にはたくさんあることがわかるの。お父さんもお兄ちゃんも昔ながらのやり方に固執するのはよくないわ。もっと視野を広げないとね」
 恵美は鼻高々だった。お母さんにこんな風に褒められたことはほとんどない。恵美はこの家族の中で、最先端を行っていることを誇らしく思った。そして古い考えに凝り固まっているお父さんやお兄ちゃんはなんて愚かなんだろうと心の中であざ笑った。
 
 2カ月が経ち、実家にいる時間が終わろうとするころ、恵美は出産前のほっそりとした体形に戻っていた。くびれたウエストを誇らしげに眺め、隆治に早く会いたいと、恵美は気をはやらせるのだった。

#小説  #群像劇   #神経症  #1964年

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