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『Egg〈神経症一族の物語〉』第十五章

 大量の荷物を両手に提げ、抱っこひもで息子の高藤哲治を抱っこした恵美は、実家に迎えに来た夫の隆治と一緒に、にぎやかな東京の街に帰ってきた。人であふれる夕方の街からは、商店街の売り子の威勢のいい声や、夕餉の支度の匂い、お母さんが子供を叱る声がひっきりなしに聞こえてくる。
 カンカンと音を立てて、2階建ての木造アパートの外側についた鉄骨の階段を上がると、ドアの隣に脱水用ローラーが付いた洗濯機が置いてある我が家が目に入った。台所と四畳半一つのつつましい家だが、3か月ぶりに帰ってきた恵美は懐かしい気持ちで一杯になった。
 
 家族が一人増えると、途端に部屋が縮まったように感じられる。
 抱っこひもから哲治を下ろし座布団に寝かせ、大量の布おむつと粉ミルクに哺乳瓶、ベビー服にお気に入りのおもちゃを床に置く。
 するとちゃぶ台と洋服ダンスと小さな食器棚、食器棚の上に乗せた白黒テレビしかないつましい畳部屋は、隆治と恵美が座っただけでぎゅうぎゅうになってしまった。
 じきに貨物列車で実家からおさがりの洋服や両親が買ってくれたベビーベッドが届く手はずになっている。せめてベビーベッドを置きたいけれど、どうやって場所を作ろう……押し入れをもっと整理しなくちゃ……とあちこちを細かく眺めながら恵美は思いを馳せた。
 
 その後、3人で銭湯に行った。
 恵美が哲治と風呂に入ってから外に出てくると、入口近くで待っていた隆治が嬉しそうに恵美に話しかけてきた。
「ケロリンになってたな?」
「ええそうね。プラスチック製で衛生的だし、デザインもおしゃれだわ」
 二人が話しているのは、最近銭湯に導入されたプラスチック製の白い桶のことだ。それまでは木桶が使われていたが、東京オリンピックの前年に内外製薬のケロリンという鎮痛剤のコマーシャルを風呂桶の内側にプリントするという斬新な手法が始まった。プラスチックの衛生面が評価されたのと、子供が蹴飛ばしても大人が腰かけても壊れない頑丈さで「永久桶」としてテレビで紹介され、一気に全国で有名になった。そんな桶が恵美たちの住む街の銭湯にも登場したのである。
「プラスチック製品って、軽くて丈夫だし、カビることもないし、衛生的で扱いが楽で、本当に便利よね」
 商店街の帰り道を歩いているうちに、濡れた髪が冬の冷気に冷やされるのを感じて、哲治のおくるみをかけ直しながら恵美が話した。
「ああ、画期的だよな。お湯を風呂桶に入れても普段の半分くらいの重さだったよ。これならお年寄りや子供でも使いやすい。評判になるのも当たり前だね」
 頷く恵美の顔を見て隆治が言う。
「それで思い出したんだけど、プラスチックは石油から作られているだろ。石炭に変わって、燃料にもなりプラスチックにもなる石油の使用量がぐんぐん増えているんだよ。これは昭和37年に原油の輸入が自由化されたのが主な原因なんだけどね。今後、石油はケロリンの風呂桶みたいにますます製品化されるだろう。どんな便利な世の中になるのか、楽しみだよな」
 相変わらず時事に詳しい隆治に恵美は感心した。
「さすが月刊『激動』の編集者さん。ニュースに詳しいのね」
 突然、隆治がうろたえるそぶりを見せた。
「?」
 恵美が小首をかしげると、隆治が慌てたように、
「後で話すよ」
と笑ってごまかし、ふいに恵美の手を取って歩き始めた。
 恵美は不思議に思いながらも、久しぶりに隆治と手をつないだのが嬉しくて、隆治の手の大きさと温かさをかみしめながら歩き続けた。
 
 帰宅して、実家から持たされた煮物とおにぎりで簡単な夕飯を済ますと、恵美はようやく落ち着いた心持ちになった。
 朝日新聞を読みながら茶をすする隆治を見ながら、恵美は哲治にミルクを飲ませおむつを替えて先に引いておいた恵美の布団に寝かせた。
 哲治は最近自分の指を動かしてはじっと見つめることが増えた。今も恵美の横で、親指をしゃぶっては口から引き抜き、よだれだらけの手をじっと見つめている。しかし、おなかがいっぱいになり眠気に勝てなくなったのか、だんだんと瞼が重くなり、体がぽかぽかと温かくなっていく。
 ゆったりとした時間が流れる中、隆治が読み終えた新聞を妙に丁寧に畳んで横に置き、ごほんと咳ばらいをした。そして、恵美にとんでもないことを話し始めた。
 
「ええっ! 会社を辞めたの?」
 隆治の衝撃的な発言に恵美の幸せなムードは一気にぶち壊された。
 そして恵美のあまりの剣幕に驚いたのか、恵美のそばで寝ていた哲治が真っ赤な顔でほんぎゃーほんぎゃーと力いっぱい泣き始めた。だが、恵美が胸を優しくぽんぽんと叩くと、哲治はすぐに泣き止んだ。その様子を眺めながら隆治が頭を下げる。
「ああ、そうだ。相談もしなくて済まない」
「どうしてなの? いつから決めてたの? 何が原因なの? これからどうするつもりなの?」
 涙ぐんで問い詰めてくる恵美に、隆治は丁寧に辞める理由を説明し続けた。しばらくすると、恵美の気持ちが落ち着いてきたのが伝わったのか、二人の話し声が子守歌になったのか、哲治はすやすやと眠ってしまった。
「つまり……あなたが銀行の業界誌の編集長になるってことなのね」
 落ち着きを取り戻した恵美にそう言われて、隆治は頷いた。
「ああ、立ち上げは苦労するかもしれないが、何とかなると思う。当座をしのぐ貯金もあるし。万が一のときは、五十嵐編集長が相談してこいって。だから大丈夫だよ」
「そう……それならいいんだけど」
 恵美がちらりと隆治を見上げる。その仕草が正月一日に別れた妹の弘子に似ていて、隆治は思わずドキッとした。
「これからは転職する前に相談してください。私にもいろいろ準備があるんだから……」
 恵美のそばで哲治がちょっとむずがった。恵美はトントンと哲治の胸を叩いてやった。哲治は再びすぐに大人しくなった。
「いい子だな」
 隆治が呟くと恵美がにこっと笑った。
「とても育てやすい子で助かっているわ。あなたに似たのかしら?」
「さあ……それはどうかな」
 話しながら二人はちゃぶ台をたたみ、隆治の布団を敷いて明かりを消した。
 
 恵美の体はついこの前まで本当に妊婦だったのかと思わせるほど引き締まった体をしていた。ウエストのくっきりとしたくびれが女性らしい若さを誇示しているようだった。
――――でもなあ、何かが違うぞ。付き合ったころの恵美とは何かが変わっている……。――――
と、隆治は恵美の体を3か月ぶりに手でまさぐりながら考えた。
――――そういえば妹の弘子も産後だったが、恵美とは違った感触だった。弘子はまだ十代だからかなあ。脚がもっと引き締まっていたぞ。太ももとふくらはぎがきゅっと締まっていて、肌にはみずみずしく張りがあった。それに比べて恵美はどうだろう。太ももの内側やふくらはぎが妙に柔かくてふわふわとした肉付きになってないか? まるでおふくろ二の腕のたるみみたいな……。――――
 恵美が布団に横たわっているのをちょっと冷静な気持ちで眺めた隆治は、恵美の太ももやふくらはぎが敷布団の上でだらしなく広がってかなり太く見えることに気が付いた。しかも下腹や内ももに何本も広がる妊娠線のせいで、肌が段々畑のようにでこぼこになっている。ウエストは細くても、もう出産する前の体ではない、そう肉体が伝えてくるかのようだった。
――――十代と二十代では産後の肉付きがずいぶんと変わるもんだな。恵美に教えてやりたいけれど、浮気がバレるのは困るなあ……――――
 隆治は妻とセックスをしながら、別の女の肉体も頭の中で味わい直している自分の状況に興奮しはじめた。そして、その興奮をそのまま恵美にぶつけることで発散していった。
 
 数か月ぶりに一つになったあと、隆治が恵美を腕枕して並んで横になった。心地よい疲れに覆われて気が緩んだのか、半分寝ぼけて隆治が呟いた。
「恵美ってこんなに脚が太かったっけ?」
 恵美がはっと体を固くする。
「前履いていたスカートやパンタロンは履けているわよ。元に戻っていると思うんだけど……」
「うーん、ふくらはぎかな……。普通の女の人ってもっと細いものじゃない? こんなに太かったっけ?」
 恵美はプライドが傷つけられ、悲しくなって反論した。
「何よ、誰と比べているのよ? これが普通よ」
 途端に恵美の中で何とも言えない、嫌な気持ちが沸き上がった。
 美しい私の姿を見せたいと必死にダイエットしたのに、隆治はくびれたウエストについては何も言わず、今まで見向きもしなかったふくらはぎについてケチをつけてきた。産後の太った姿を隆治にさらさなくて済んだのはよかったが、ここ数か月の努力が無意味になる一言を投げかけられ、恵美の胸は悲しみで一杯になった。
 思わず背中を向けた恵美の様子を意に介することもなく、隆治は高いびきをかきはじめた。
 
 しばらくすると哲治が泣き始めた。恵美は体を起こし、哲治の哺乳瓶を台所に用意しに行った。
 戻ってくると哲治が泣いているのに、隆治はごうごうといびきをかいて眠っている。恵美は哲治にミルクをやり、げっぷをさせてからおむつを替えた。布団に寝かしてとんとんと叩いてやると、むずかりながらも眠っていく。
 暗闇の中、哲治の頭を覆う黒い巻き毛が規則的な呼吸とともに上下するのが見えた。
 哲治が寝たことを確認して、恵美は自分も同じ布団にそうっと潜り込み、隣の布団でぐっすりと眠っている隆治を見つめた。隆治の黒々とした巻き毛が、呼吸に合わせてうねうねと枕の上で波打っている。
 暗闇に慣れた恵美の目にはその黒さが闇よりも暗く思え、初めてこの髪を憎いと感じた。
 
 
第一部 完


#小説  #群像劇   #神経症  #1964年

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