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『Egg〈神経症一族の物語〉』第十二章

「カッちゃん、様子はどうだったい?」
 7人も入ればいっぱいになってしまう小さな飲み屋のカウンターで熱燗をちびりちびりとやりながら、『激動』編集長の五十嵐重雄は、大阪から東京に戻ったばかりの部下である加藤実に、大阪で取材をしている同じく部下の高藤隆治について質問した。
「なんかねえ……。ちょっと前から、妹が大阪に来てるらしいんすよ」
と、加藤は口にくわえた煙草に火をつけながら答えた。
「たしか妹さんって……」
と、副編集長の矢田健が焼き鳥をかじりながら呟く。
「そう。捨て子なんす。血は繋がってない」
 ふーっと煙を口から吐いて、加藤が言った。
「ありゃ、できてますね」
「ちっ」
 おちょこになみなみと注いだ酒をくいっとあおって五十嵐は舌打ちした。
「で、隆ちゃんは仕事をほったらかして、妹とよろしくやっちまっていると」
「ええ」
と、加藤も面白くない顔をした。
「大学出たばっかりで子供も生まれたっていうのに、何をやっているんだか」
 そんな五十嵐と加藤のやり取りを黙って聞いていた矢田が、こほんと咳払いをして、五十嵐をじっと見た。
「ここは編集長自ら大阪に行って、隆ちゃんを説得するしかないんじゃないですか」
「な、なんでだよ、健ちゃん」
「あらら~覚えてないんですか?」
 冷ややかな目をして矢田が言う。
「戦争から復興し始めた10年前の大阪で、学徒動員された私たちこそ、新時代を切り開く新しい雑誌を立ち上げるにふさわしい! と二人で意気込んで創刊準備に明け暮れていたときのことですよ」
「お、おう! 俺たちは軍に招集されたものの、訓練をしている間に終戦になったからな。その後、アメリカに占領された途端、マスメディアの論調ががらっと変わったのに驚いたと同時に呆れたのさ。国に言われた通りの情報を垂れ流して、国民全体を洗脳しているメディアの在り方は間違っている。これからはメディアの矛盾に振り回された俺たちの世代が、民間主導のメディアを作っていく必要があるってな!」
 バンバンと隣に座っている加藤の背中を叩きながらまくしたてる五十嵐を見て、矢田がゴホンッと大きな咳ばらいをした。
 途端に五十嵐がびくりとする。そんな様子をちらりと見て、無表情のまま矢田が言った。
「ええそうですよ。そんな私たちの熱い思いを実現するために、東京へ出張している私の目を盗んで、『私の妻』と不倫していたのは、どこのどなたでしたっけねえ? うーん、ひょっとして記憶喪失になっちゃいましたかねえ?」
「そ、その話と隆ちゃんの話とは無関係だろ!」
 慌てふためく五十嵐を見て、矢田が鼻で笑った。
「同じですよ。不倫『した』もの同士、通じるところがおありでしょ? なにしろ私は不倫『された』側ですからね。隆ちゃんのことを責めてしまうかもしれませんし…」
 加藤が「ああ」と気が付いて言った。
「ひょっとして、矢田さんが大阪に行かないのって、これが原因?」
「そうですよ」
 澄ました顔で矢田が言った。
「大阪には別れた妻が住んでいますし、二人の実家も大阪です。離婚するときは実家を巻き込んでもめにもめましたからね。今更大阪に行くのは、本当に体裁が悪くて!」
「だからあ!」
と五十嵐が頭をぼりぼりとかいてうめいた。
「わざわざ大阪を出て、東京で出版社を立ち上げたんだろ? もーいい加減に許してくれよぉ」
「許してますよ」
 けろっとした表情で矢田が言った。
「でなければ、一緒にいるわけないでしょ。でも、大阪には絶対行きたくありませんし、不倫にかまけて仕事をしない社員の対応は、五十嵐編集長、あなたの役割です」
 理路整然と言われて、五十嵐はすっかりしょげてしまった。

 この二人のやり取りを見て、加藤は思わず噴き出した。
「二人ともいっそ結婚したほうがいいんじゃないすか? 仲良すぎ!」
「勘弁してくれよ、こんなおっかねえ奴なんか」
「私も無理ですから、ご安心を」
 ふざけたやり取りをしながらも、五十嵐の目は暗い。
「カッちゃん、隆ちゃんは東京に戻ってきそうだったか?」
「どうかな。年が明けたら奥さんが実家から戻るんですよね? 隆ちゃんは恐妻家っぽいし、さすがに帰りそうすけど……。ただ……」
 言い淀む加藤をちらりと見て、五十嵐が先を促した。
「隆ちゃんの妹、弘子さんっていうんすけど、実はちょっと話したんすよ」
「大阪でか」
「ええ。隆ちゃんと仕事の話をして別れた後、僕の前にいきなり現れましてね。自分が実家から家出してきて、兄が世話をしてくれているのだが、ひょっとして兄はすぐ東京に戻ることになるのか? って聞いてきたんす」
「それで?」
「はっきりわからない、って話したら、突然むっとした顔になって、兄は年明けまでは大阪にいるから、それまでは一緒に住んでいていいと言った。兄を東京に早く戻されると自分が困るって怒りだしたんす」
「また随分と自分勝手な妹さんですね」
 矢田が呆れて言った。
「そうなんす。なんていうか、女王様気取りなんすよ。大人びた格好はしてたけど、まだ高校生ぐらいなんだよな、あれ」
「そうか……」
と納得して、五十嵐が煙草に火をつけた。
「女王様の剣幕に押されて、隆ちゃんが言いなりになってる可能性が高いんだな。仕事が思うように進まないのもそのせいか」
 
「へい、ネギま3本。つくね3本。お待ち」
 白髪交じりの髪を角刈りにし、白いはっぴを着た大将が、腕をにゅっと伸ばして、焼きたてのネギまとつくねをカウンター越しに出してきた。
「大将、熱燗もう一本だ」
 五十嵐が注文をすると、大将は「はいよ」と答えて酒の準備を始める。
 手際のいい大将のきびきびとした動きを背中越しに眺めながら、3人はあつあつの焼き鳥にかじりついた。
 串を口から引き抜きながら加藤が言う。
「……にしても、どうして隆ちゃんはあんなに素直に相手の言いなりになってしまうんでしょうね」
 矢田がおちょこの酒をじっと見ながら五十嵐を指さして言った。
「この狸おやじの言うことも、疑うことなく何でも信じてしまいますしね。ぜんっぜん偉くないのに、不思議です」
「健ちゃん」
 五十嵐が矢田を睨みつけた。
「俺は狸おやじじゃねえ」
「この出っ張った腹を引っ込めたら、認めて差し上げますよ」
 二人のやり取りを見た加藤が笑って言った。
「矢田さんと編集長は長い付き合いすから。それを隆ちゃんに求めるのは酷っすよ」
 そうだそうだ、と頷いて五十嵐が言った。
「カッちゃん、お前には話してなかったが、隆ちゃんの父親は海道組の弟分で、中越地方では名の知れたテキヤなんだよ」
「えっ? そうなんすか!」
「ああ。大卒の新人なんて採る気はなかったんだが、そっち方面の人脈を広げるにはうってつけだろ? それで隆ちゃんを採用したんだよ」
 納得した顔の加藤を見て、五十嵐が続ける。
「テキヤの親分の息子だっていうから、どれだけ荒くれた野郎が来るのかと思っていたら、肩透かしだったな。一度も人を殴ったことがなさそうなひょろっとした好青年なんだから」
「しかも、頭脳明晰で仕事熱心」
と、矢田が後を受けて話し出す。
「編集長を神様のように崇めるのには驚きましたが」
「そこなんだよ」
と五十嵐が頷く。
「父親の高藤誉ってさ、織田信長に似ているらしいんだよ。高圧的でワンマン。自分の言うことには絶対服従を求め、少しでも気に入らないことがあると烈火のごとく怒って暴力をふるう短気な男なんだとさ。そして自分に敵対する人間には一切容赦しない。あの男絡みで行方不明になった人間が一体何人いることか…」
「うわ、おっかねえ」
と、加藤がぶるっと身を震わせた。
「そんな男が父親なんだ。反抗するか服従するかしかなかったんじゃないか、隆ちゃん」
 遠い目で五十嵐が言った。
「そして、彼は服従を選んだ、と」
 悲し気に矢田が呟いた。
「なるほど。妹さんもお父さんに似て怒りっぽい感じでしたから。ああいうわがままに自動的に屈服するように躾けられちゃったってことすか」
 加藤がやれやれと天を仰いだ。
「だからよ、俺は隆ちゃんがおとなしく東京に戻ってくるかどうか少々怪しいと思っているんだ」
 そう言うと、五十嵐は苦々し気にため息をつき、頭をぼりぼりとかいた。
「あ~やっぱり行くしかないか、大阪」
「隆ちゃんのためにも、我々のためにも、決着をつけるべきでしょうね」
 矢田がきっぱりと言った。
 三人の男たちはおちょこで乾杯した。そして、これから起きることについてはもう話さなかった。

#小説  #群像劇   #神経症  #1964年

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