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『Egg〈神経症一族の物語〉』第九章

「やばい9時だ。くっ! 頭が痛え…」
 大阪に取材に来ている高藤隆治は、カーテンが閉まった薄暗い部屋でのろのろと体を起こし、けたたましく鳴っている目覚まし時計を止めた。
 ここは編集長の五十嵐が大阪で借りている四畳半のアパートの一室だ。昨晩は大阪の商工会から情報をもらおうと接待をしていた。やっとのことでセッティングできた商工会会長との席であったし、会長から勧められた酒を飲まないという粗相はできない。隆治は酒を浴びるように飲んだ。しかし2次会、3次会と席が進むにつれ、ちゃんぽんした酒は確実に隆治にダメージを与えたのだ。
 布団からやっとのことではい出て、ガンガンと痛む頭を押さえながら、隆治はこじんまりとした台所のくすんだ流しの蛇口をきゅっとひねった。凍り付きそうな冷たい水が、ケイコという飲み屋の店名の入っているくすんだグラスにほとばしり出る。
「ふう…」
 冷たい水を一気に飲み干すと、アルコールで焼けた胃袋がぎゅっと縮んだ。
「昨日はどうやって帰ってきたんだっけ…。タクシーを捕まえて、商工会の会長さんを見送ったのは覚えているんだけど…」
 そこまで思い出して、隆治は自分がランニングとトランクスしか着ていないことにようやく気付いた。
「ううっさぶさぶ…」
 寒さに震えると余計に頭が痛くなる。隆治はうめき声をあげながら、その辺に散らばっている洋服を着こみ半纏もまとった。
 流しの横の壁に貼ってある小さな曇った鏡で、隆治は自分の顔を眺めた。無精ひげが生えて青白い顔をしている。頬を撫でながら、隆治は昨晩のことを思い出そうとしていた。
 そのとき、自分が出てきた布団から女のうめき声が聞こえてきた気がして、隆治はドキッとして振り向いた。
 息を凝らして四畳半の部屋をのぞき込むと、先ほどまで自分が寝ていたせんべい布団の半分がいまだに人型に丸まっている。人がいる? 誰? どうして? と必死に考えるが、アルコールに浸かった頭が心臓のドキドキ音で余計に痛くなるばかりで埒が明かない。
 そこで隆治はカーテンを開け、思い切って叫んだ。
「おい! お前は誰だ!!」
 すると小刻みに布団が揺れて、くくくっというくぐもった女の笑い声が聞こえてきた。
「ひっどおい! お兄ちゃん、昨日のこと全然覚えてないの?」
 満面の笑顔で布団から出てきたのは、ピンクの透け透けのスリップと下着だけを身に着けた妹の高藤弘子だった。
「ひ、弘子?! お前、なんでここに?」
 腰を抜かさんばかりに驚いた隆治の姿を見て、弘子は耐えられなくなったらしく、おなかを抱えてゲラゲラと笑い転げた。
「きゃははは! お兄ちゃん、昨日の夜と同じこと言ってる~!!」
「昨日の夜…?」
 弘子の説明によるとこうだ。産後、子供を育てるのにうんざりした弘子は、両親の目を盗んで、夜行列車に乗って大阪まで逃げてきた。隆治が大阪にいることは母から聞いていたので、アパートを見つけて階段で待っていると、深夜に泥酔した隆治がタクシーから降りてきたので、そのままアパートに転がり込んだ、ということだ。
「お兄ちゃんたら、『お前、なんで大阪にいるんだよ』って言いながらあたしの服を脱がして、あっという間に…」
「ちょっと待った! オレがお前を抱いたっていうのか? そんなことするわけないだろ!」
「えーそれも覚えてないの~?」
と弘子は腰をくねらしてちょっといじけて、ごみ箱をちらりと見た。つられて隆治が目をやると、くしゃくしゃになった大量のティッシュが目に飛び込んできた。
「はっ? まさか、そんなことって…」
 二日酔いとは別の頭痛に頭を抱えた隆治の背中に弘子がそっと寄り添う。
「実家にいたときさあ、あたしが彼氏と寝てるとこ、覗いてたでしょ?」
 ぎくりと隆治の背中がこわばる。弘子は続けた。
「勝とお兄ちゃんがこっそり覗いているの、あたし知ってたんだあ。勝は何回か覗いた後で我慢できなくなっちゃったみたいで、庭であたしを押し倒したのよ。お兄ちゃんは違ってたのにねえ…」
 隆治はどっと噴き出した汗と共に、大学入学直前の頃を思い出した。
・・・
 高校の制服を着るのもあとわずかだな、と思いながら、隆治は高校から自宅に帰ってきた。広い屋敷の長い通路を歩いて自分の部屋に戻ろうしたとき、住み込みで働いている知恵遅れの勝の姿が目に入った。勝は弘子の部屋の薄く開いた扉を、身じろぎ一つせずに凝視している。
「勝、何やってんだ?」
 隆治が声をかけると、驚いた勝は飛び上がるように扉から離れ、そのまま廊下を走って逃げてしまった。
「なにやってんだ、あいつ…」
 開きかけの扉を閉じようと手を伸ばすと、「ああ…!」という切羽詰まった声が聞こえてきて、隆治はふと中を見た。そこにはもうすぐ中学生になる弘子と自分と同じ高校の男子が裸で絡み合っている姿があった。赤いランドセルの上に、黒い詰襟がくしゃくしゃになって引っかかっている。二人は頭を向こうに向けているから、扉からは布団に寝ている二人の性器と肛門が動いているのだけがはっきりと見えた。
「ぐふふ…」
 廊下から笑い声が聞こえて、焦ってそっちを見ると、廊下の曲がり角で勝が隆治の股間をじっと見て笑っている。勝同様、隆治の股間もパンパンに膨れ上がっていたからだ。
 それから上京するまでの1カ月ほどの間、隆治は弘子の濡れ場を何度も目撃する羽目になった。そのたびに勝もいて、二人はまるで覗きの共犯者のような関係になっていた。
・・・
 隆治は12歳にして性欲の塊のようになった弘子から逃げるように上京したが、勝は弘子の魔力に捕まってしまったのだ。まさか何年も経ってから、自分も勝と同じことをするなんて…と隆治は激しく狼狽した。と同時に、実家で初めての子育てに頑張る恵美のことを思い、罪悪感がどっと湧いてくるのを止められなくなった。
「頼む!」
 隆治は土下座した。
「今回のことはなかったことにして、松本に帰ってくれ!」
「なんで? きょうだいって言っても、血がつながっているわけじゃないんだから、いいじゃない?」
 きょとんとする弘子に隆治は言った。
「オレは恵美と結婚しているんだ。こんなことが許されるわけがない!」
「許されるわけないって…。じゃあ、あたしはどうなるのよ!!」
 弘子が突然叫んで、泣きじゃくり始めた。
「あたし…お兄ちゃんが好きなの! ずっと抱いてほしかった…。でも、お兄ちゃんたら、私と話をするのを避けてばっかりで。あっという間に松本から出ていっちゃったから! 思い切って大阪まで来て、知らない街を探し回ってお兄ちゃんが住んでいるところを見つけたんだよ! 昨日、抱いてもらえて嬉しかった。やっと思いが通じたと思ったのに、まさかあっさり捨てるわけ!? そんなことが許されるなんて、お兄ちゃん、本当にそう思っているの!?」
 心臓がドキドキ高鳴り、その振動で余計に頭が痛くなる。弘子がオレを好きってどういうことだ? きょうだいだろ? オレは弘子をきょうだいとして愛していたはずなのに。まさか、そんなことって!!
 ふと、目の前で泣きじゃくる小柄な弘子がわずか16歳の娘に過ぎないことを思い出した。出産したものの、体にはまだ淡い幼さが残っている。思わず弘子を抱きしめた。
 隆治の胸でしばらく泣きじゃくっていた弘子だったが、背中をさすられているうちに落ち着いて泣き止んだ。そして言った。
「わかった…。松本に帰る」
 ほっとした隆治の顔を涙でぐちゃぐちゃになった顔をした弘子がじっと見た。
「最後にもう一度、抱いて」
 戸惑って異議を唱えようとする隆治の口を弘子の唇がふさぐ。そして隆治を押し倒した。

#小説  #群像劇   #神経症  #1964年

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