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『Egg〈神経症一族の物語〉』第六章

 
第六章 
 
「え? 年明けまで大阪に行くの?」
 夜遅く病院にやってきた隆治の言葉を聞いて、恵美は思わず泣きそうになった。
 母がいてくれるとはいえ、慣れない育児。新生児室で預かってくれる時間はあるものの、深夜に2~3時間起きに赤ん坊は泣き、そのたびおしめを変え、哺乳瓶にミルクを作り、抱っこして飲ませ、げっぷをさせて…。
ようやく眠り始めたと思って布団にそうっと置くと、途端に火が付いたように泣き騒ぐ。それで慌てて抱っこしなおしては、部屋中を歩き回ったり、ゆすってみたり、立ってみたり、座ってみたり。
 静かな病棟に赤ん坊の泣き声が響きわたることを恐れ、恵美はほとんど眠れなくなっていた。

 そんな状態だからか、赤ん坊を抱っこし続けた腕はしびれるように重くなり、肩から腕にかけてはがちがちに凝って痛みだし、腰もぎしぎしと音を立てるようになっていた。
 そうでなくても、産後は広がった子宮の縮む痛みと会陰切開の痛みでぐっすり眠れないというのに。
 このちりちり頭の生き物の扱いに、恵美はすっかり参り始めていた。

 それなのに。
 一番頼りにしている隆治が、これから丸3カ月、自分を置き去りにして大阪に行くというのだ。目の端に涙が滲むのをこらえていると、隆治が言った。
「東京オリンピックに続いて、すごく大きなことが日本で起きるんだよ。この赤ちゃんが大きくなったら、きっと話して聞かせられるようなことなんだ。それを僕が取材してくる。
だから、恵美。産んだばかりでいろいろ大変だと思うけど、実家でちゃんと養生して、この子をしっかり育ててくれよ」
 正子がうんうんと大きくうなずいて言った。
「家のことは恵美に任せておいて大丈夫ですよ。隆治さんはしっかり働いてきてくださいねえ」
「はい、お母様、恵美をどうぞよろしくお願いいたします」
 ぺこりと頭を下げる隆治に、正子は慌てた。
「あらあら、そんな頭なんか下げて。当たり前のことですから!」
 夫と母親の、よくあるホームドラマのようなやり取りを見ていて、恵美は自分が別世界の住人であるかのような気持ちになった。
 どうして二人とも、赤ん坊が生まれただけで、立派な夫や立派な祖母になれるのだろう。どうして私は、おなかを痛めて産んだ張本人にも関わらず、立派な母親になれないのだろう。
 
 耳元で轟々と嵐が鳴っている音が聞こえてきた。子供のころから村でもちょっと浮いていた私は、周囲から仲間外れになっている自分に気がつくたび、不安感と孤独感に苛まれるようになっていた。ちっぽけでかわいそうな私は、大雨の中ずぶ塗れになって暴風で飛ばされないように地面にしがみついている。私がやりたいことを周りに認めてもらおうと体を起こすと、あっという間に暴風雨が私を地面から引きはがし、私の体を空中に放り投げる。安定した足場を失った私は、悲鳴を上げて泣き叫ぶのに、誰も同情して手を伸ばしてくれることはないのだ。
 孤独感を感じるたび、そんなイメージが湧きあがるようになり、恵美は他人が恐ろしいと思うようになっていた。周囲に合わせようと思えば思うほど、自分を粗末に扱っている気がして、その矛盾に耐えられず空回りする自分の心。今も一番身近なお母さんと夫と話をしているだけなのに、恵美の心は小さく縮こまり、暴風雨に怯えていた。

 そんな思いを抱えながら、腕の中で眠っている赤ん坊を恵美は見た。相変わらずまったく可愛いと思えないその寝顔。しかし、赤ん坊を見ても、嵐のような不安感は襲ってこない。それで恵美はふと気がついた。
ーおなかを痛めて生んだ実の子供なら、私の味方になってくれるんじゃないかしら-
 改めてチリチリ頭の赤ん坊を眺めた。自分の話を何でも聞いてくれるお人形。そう思ったら煩わしい赤ん坊への嫌悪感が少し和らいでくる。
頬に赤みが差し、ほんの少しだけ元気を取り戻した恵美は、赤ん坊を抱っこし直して二人の話に注意を戻した。
 
「そうだ。この子の名前を考えてきたんですよ」
 そう言って、隆治はカバンから半紙を取り出した。その中に、美しい楷書体で、
 哲治
と書いてある。
「男の子なので、僕の一文字を取って名付けました。女の子が生まれたら、恵美の一文字を取ろうと思っているんです」
 正子は嬉しそうに賛成した。
「ええ名前じゃないの。ほーら、哲治ちゃん、おばあちゃんですよ!」
 恵美の腕の中の赤ん坊に、正子が嬉しそうに話しかける。
「それで、戻ってくるのはいつになるの?」
 恵美が心細さを押し隠して尋ねると、
「年明けになると思う。恵美は哲治と実家でゆっくり過ごしてきてよ。僕はそれまで大阪で取材を続けるつもりだから」
 隆治の言葉を聞いて、恵美はベッドにへたっと座り込んだ。
 途端に、哲治が勢いよく泣き始める。
「あらあら! 恵美が勢いよく座るから、哲治ちゃんがびっくりしちゃったよ。かわいそうに!!」
と恵美の行動にちくりと嫌味を言いながら、正子が恵美の腕から哲治を取り上げた。
 正子がしばらくあやしてあげると、哲治はすぐに泣き止む。
 哲治の様子を見た恵美は、正子の批判めいた自分へのセリフに傷ついて、悲しく惨めな気持ちをぶり返してしまった。だが、そんな恵美の様子に全く気がつかないまま正子が言った。
「そうですか、年明けまでですか。お勤めご苦労様です。
二人のことはこちらできちんとしますので、存分にお働きになってくださいね」
 母親らしい正子の態度に安心した隆治は、どんよりとした目で見返す恵美の様子には気がつかず、腕時計をちらりと見やると、
「それじゃ、いろいろと準備があるので、これで失礼します。
恵美、落ち着いたら電話するから、実家でゆっくり過ごすんだよ」
と言って、そそくさと病室を出て行ってしまった。
 
 恵美は隆治が閉じた扉を恨めし気にじっと見つめた。
 私がどんな気持ちでいるか、あの人はまるでわかっていない。
生まれて初めてのお産、生まれて初めての子育て。なのにあの人はそばにいてくれなくて、ちょっと苦手な母親が24時間そばにいる。
 あのしみったれた田舎の家に、また帰らなければならないってだけでもうんざりしているのに。
 どうして? どうして、隆治は私のそばにいないの!!!
 こみ上げてくる怒りと悲しさと孤独感で、恵美の両目から涙がボロボロとこぼれた。
 正子がそれを見て、気の毒そうに恵美に話しかけた。
「恵美、大丈夫かい? 隆治さんはこれから一家の大黒柱として、しっかり働いて、ちゃんと出世しないといけないんだから、恵美も妻として気張らんといかんよ。妻が家を守るのは当たり前なんだからねえ」
「わかってる…わかってるけど、勝手に涙が…」
 恵美は布団に顔をうずめて泣き顔を隠した。
 その様子を見て、正子が哲治を抱き上げた。
「今晩は哲治を新生児室で預かってもらえないか聞いてきてやるよ。ちゃんと眠れてないみたいだから、今晩はゆっくり眠るといいさ」
 
 正子がいなくなって5分もしないうちに看護婦がやってきた。
「恵美さん、今日は睡眠薬を飲みましょう」
「え?」
「疲れがたまって気が張っているみたいだ、とお母さまが心配されてましたよ。恵美さん、もう3日連続で赤ちゃんのお世話を頑張っていますものね。一晩くらいゆっくり眠っても大丈夫ですから」
「はい…」
 言われるままに、手渡された白い錠剤を水で流し込む。
「何かあったら遠慮なく私たちを呼んでくださいね」
 看護婦がにっこり微笑んで、病室の電気を暗くしてくれた。
 一人で薄暗闇の中にいると、天井の木目にある節が目玉のように見えてくる。何匹もの得体のしれないものに見つめられながら、恵美は広がり切った子宮がいまだにぎゅうっと固く縮み続けているのを感じた。そしてこの強力な縮みゆく力を中心として、体全体が小刻みに波打っていく。
 恵美は闇の中、繰り返し波立つ海の中へ沈んでいくように、深い眠りに落ちていった。
 

#小説  #群像劇   #神経症  #1964年

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