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『Egg〈神経症一族の物語〉』第四章

「恵美、おめでとう。しっかりした顔つきの男の子でねえの」
 高藤恵美の母、鈴木正子が産後の荷物をまとめて病院に戻ってきたのは、夕方遅くなってからのことであった。

 病室はこざっぱりとした個室で、恵美の隣で小さな巻き毛の赤ちゃんがすやすやと眠っている。
 神経質な娘は、個室の方が気も休まるだろうが、大部屋よりだいぶ値の張る個室代をポンと払える隆治さんは何とも頼もしい、と正子は改めて義理の息子に良い感情を抱いた。

「お母さん。遅かったじゃないの」
と恵美が口を尖らせて文句を言う。
「そりゃ、これから一週間泊まり込むんだもの。用意するものはぎょうさんあるんよ」
 そういって、正子は両手でぶら下げてきた風呂敷包みを、よっこらせ、と床に置いた。
「一体何を持ってきたのよ」
 恵美が呆れたように尋ねる。都会が好きな恵美にとっては、もんぺを履いた母の姿も、持ってきた風呂敷包みも、田舎っぽくて嫌で嫌でたまらない。しかし、出産したとなれば、そんな母を頼らざるを得ない。恵美は軽蔑を表情に出さないように気を付けた。

「まず、おしめ。おらの古くなった着物をほどいてたくさん作ってきたから、しばらくはこれで間に合うと思うわ」
と言いながら、正子は色とりどりの和柄の四角い布を大量に風呂敷から取り出した。
 蝶の柄の布に気づき、恵美は思わず手に取った。
「この着物。懐かしい…」

 恵美が幼いころ、母が気に入ってよく着ていた着物だ。恵美はこの蝶のデザインが大好きだった。
 色とりどりの蝶が着物の上を数多ふわふわと舞う。お日様の当たる中では可愛らしくはためき、満月の光の中では怪しく舞い飛ぶ。その様子を飽かず眺めるうちに、恵美の美しいものに惹かれる性分がぐんぐん育っていったのだ。
 美大を受験したのも、美しいものを生み出し、美しいものだけに囲まれて生きたい、という思いに突き動かされたからと言っていい。だから、兄が一家の跡継ぎとして農家を切り盛りしてくれているのを良いことに、恵美は東京の美大を受験し、洗練された美が溢れる都会での青春を謳歌したのである。
 しかし、そんな美意識の成れの果てが、色褪せ、ほつれて、挙句におしめになってしまうとは…。懐かしさと悲しさが入り混じり、恵美は深いため息をついた。

「そいで、今日はお祝いだから。ほうら!」
と言って、正子が次に取り出したのは、霜降りの牛肉であった。
「え? お母さん、どういうこと?」
 予想もつかなかった、生の牛肉を鼻先に突き付けられて、恵美は戸惑った。
「病院の食事は、味気なくていかんよ。出産で体力使ってるんだから、うまいものを食べなくては」
と言うと、正子はリュックサックから、電動鍋をいそいそと取り出し、早速すき焼きを作り始めた。

 電動鍋はコンセントにプラグをつなぐだけで調理ができる便利な器具だ。正子が住む群馬県の農村地帯ではいまだに薪で風呂を炊いているが、調理器具だけは着々と電化製品に置き換わっていた。
 特に電動の炊飯器と電動鍋が家に来たことで、薪をくべながら火の加減をずっと見張る必要がなくなり、一日三度の食事の支度がかなり楽になった。おかげで今までなら諦めていた、でき立ての温かいおかずを以前より多く出せるようになった。
 今回わざわざ電動鍋を持参したのも、出産を乗り越えた娘に、温かくておいしいすき焼きを食べさせたいという正子の母親としての愛情からだった。

 しばらくすると、牛肉と野菜が煮えるいい匂いが辺り一面に漂い始める。恵美はいつ看護婦が飛んできて怒られるかと冷や冷やしたが、正子は平気の平左だった。
「うん、こんなもんだろ。さ、たくさんおあがり」
といって、卵を溶いたお椀に、たっぷり肉と野菜を入れて恵美に差し出した。
「ありがとう…」
 おずおずとお椀を受け取り、肉を口に運ぶ。
「おいしい…」
 アツアツで出来立ての料理は病院では望むべくもない。さっき出されたかなり早めの冷めた夕飯はあまり喉を通らなかったのに、作りたてのすき焼きはいくらでも恵美の腹に収まった。
「さ、どんどんあがり」
 正子が差し出すお椀を、恵美はがつがつと平らげる。満足したところで、赤ん坊がぐずり始めた。

「おやおや、赤ちゃんもおなかがしゅいたんでちゅか?」
 正子が慣れた手つきで赤ん坊を抱きあげる。まだ目も開かぬ赤ん坊は、真っ赤になってギャーギャーと泣き叫んだ。
「恵美、哺乳瓶はどこだい?」
 きょろきょろとあたりを見渡す正子に、恵美はベッドの後ろの棚から哺乳瓶と粉ミルク缶を取り出した。
「作り方は聞いたんだろ?」
と正子に言われて恵美はぎこちなくうなずいた。
 さっきは看護婦さんがやり方を見せて作ってくれたのだ。今回自分が初めて作ることになる。ちゃんとできるかちょっと不安だった。

「えーっと。粉ミルクをスプーン1さじ。お湯を3分の2くらい入れてかき混ぜて…」
 湯気がもうもうと出る哺乳瓶を恵美が勢いよく振ったことで、中身が勢いよく飛び出してしまった。
「熱っ!」
 思わず哺乳瓶を取り落とす。ミルクが飛び散ってしまった。
「ありゃりゃ、これは大変!」
 正子が赤ん坊を恵美に手渡し、慌てて床を拭き、哺乳瓶を拾い上げた。
「相変わらず不器用な子だね。世間の人は誰だって教えられなくてもこのくらい普通にやれるもんさ。お前は家にいる間、熱心に家事をしないからこういうことになるんだよ。ほら今教えてやるから、よく見ときな!」
 ちくりと嫌味を言うと、恵美の顔が暗くかげった。正子はそんな恵美の様子を見ながら心の中でため息をついた。

 おらが恵美についキツイ言い方をするのは、人並みに生きていくことが大切だ、ということをこの子がちっともわかってくれないからさ。
 農村に住んでいりゃあ、寒い真冬に井戸から水を汲むのも、暑い真夏に薪で火をくべるのも当たり前のことだ。なのに恵美ときたら、冷たい水を使う洗い物や掃除は手が荒れて痛いと訴え、かまどの火の番は暑くて耐えられないと泣き、畑仕事は日に焼けるから嫌だと文句ばっかりだ。この子が共同作業に加わらないせいで、周りのお宅からどれだけ嫌味を言われたことか。
 美しいものを愛でるのは結構だが、成すべきことを成さなければ村の中で生きていくことはできない。何度もそう教えているのに、恵美は鏡の中の自分の顔ばかり眺めているんだ。どうしてこんなに浮世離れしているんだろうねえ。全くたまらないよ。
 この子が母親になったのにミルク一つ作れないのは、おらの言うことをちゃんと聞いて家事のいろはを覚えてこなかったせいだ。ああ、なんでおらはこんなことすら恵美に身につけさせられなかったんだろう…。

 恵美が実家から出て行ってすっかり忘れていたもやもやした気持ちが、久々に胸によみがえった正子は、再び嫌味をこめて恵美に言った。
「いいかい、お前みたいに激しく振らなくても、粉ミルクはちゃあんと溶けるようになってんだよ」
 正子が消毒された新しい哺乳瓶を取り出し、ミルクとお湯を入れ軽く瓶を振る。そして、水が張った桶で哺乳瓶をゆっくり回しながら人肌に醒ました。手際のいい正子の様子を、恵美はぼうっと眺めた。
「ほら、この温度だ。手に持ってよーく覚えるんだよ。それで赤ちゃんに飲ませておやり。お前がもたもたしているから、赤ちゃんがこんなに泣き叫んでいるよ。本当にかわいそうだ。
 おーよちよち、もうちょっとでマンマでちゅからね」
 恵美が抱いている赤ん坊に向かって、正子が赤ちゃん言葉で話しかけている。その様子をぼんやり見つめていると、哺乳瓶のじわっと温かい感触が恵美の掌に伝わってきた。
 恵美は腕の中の赤ん坊が声も嗄れんと泣き続けていることに意識を向けると、ベッドに腰を下ろしてのろのろと赤ん坊の口に乳首をあてがった。そのまるでやる気のない恵美の様子を見て、正子が再びいらだつ。
「まったく! お前も母親になったんだから、いつまでもそんなふうじゃいかんよ。もっとしゃきっとすんだよ。隆治さんに呆れられたら大変だ」
「わかってるよ…」
 不貞腐れた言葉しか出てこない自分が情けない。

 でも、いつだって私とお母さんの関係はこうなのだ。
 村の中で母親としてきちんと家を守り畑や村の仕事をし、他人と協調して生活するお母さん。私も見習おうと努力したけれど、お母さんもお父さんも村の人たちも、テレビや雑誌に出てくる人たちとはかけ離れて芋くさい。こんな人たちの中で一生懸命頑張って生きていたら、私は私の理想像からどんどんかけ離れてしまう…。 
 だって私はアメリカのホームドラマにいるような美しい主婦になりたいのだ。家事は家電をフル活用するから手も荒れないし効率がいい。家電のおかげで朝から晩まで働き続けなくてもいいからお化粧をしたりおしゃれをする時間も取れて、その美しさで夫にずっと愛されて大切にされる。
 そんな人生が私の理想。
 なのに、お母さんは辛くて田舎臭くておばさんになる道まっしぐらの生き方を私に押し付けてくる。それは耐えられないほど苦しかった。
 あるときたまらなくなって、お母さんに私の理想の生き方を話してみたら
「何を夢みたいなこと言ってるのさ、バカバカしい」
とまるで取り合ってもらえなくて、胸が引き裂かれるほど悲しかった。

 どうしてお母さんは私を認めてくれないの。
 私は私のあるがままを認めてほしいだけなのに。
 私が好きな私の姿を、お母さんやお父さん、お兄ちゃんや友達に愛してほしいだけなのに。
 本当の私を見て! 
 本当の私は農家の芋娘じゃない! 
 お願いだからありのままの美しい私を受け入れて! 

 こんなささやかな願いを、子供のころから誰にも理解してもらえなかった。どうしてこの村やこの家族は、私が大切にしているもの全てを「くだらない」と一蹴するんだろう。
 それでも東京の大学に行って、隆治に出会って、私はやっと自分の美しさを認めてくれる人に出会えた。東京にさえ住んでいれば、私はアメリカの主婦のような生活が送れるんだ。私にも幸せが訪れた。そう思っていたのに…。
 赤ん坊が生まれたことで、私はまた村の見えない掟に絡めとられようとしている。そして掟が人間になったようなお母さんは、押しつけがましくてうっとおしい。
 だけど出産のような大きな出来事で困っているときにはとても頼もしく安心できるのも事実だ。お母さんだって家の方が忙しいはずなのに、出産のために病院に駆けつけて、もう1週間も私に付きっきりで手を貸してくれている。

 私を愛してくれているのだとよくわかってはいるのだけれど…。


#小説  #群像劇   #神経症  #Egg・神経症一族の物語


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