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『Egg〈神経症一族の物語〉』第十一章

 松本駅の近くに、大きな門構えで四方をぐるりと高い塀で囲った立派なお屋敷が立っている。門番の男たちが必ず2,3人いるのだが、腕や背中に入れ墨のあるガラの悪い連中が多い。そして屋敷の隣には豪華な成金好きのする派手なバーがあり、そのバーから駅に向かって走る一本道の両側には小さな飲み屋が軒を連ねている。日が暮れると、この一帯は夜の街に変貌する。

 ここは中越一帯をしきる高藤組の本拠地だ。組長の高藤誉の妻いちは、毎日大量の家事とバーの切り盛りで慌ただしく生活していた。今もバーで出す新作の料理をチェックして、料理長の高橋にもう少し醤油を足すようにと言いつけたところだ。
 寡黙な高橋はいちの話を頷きながら黙って聞いていたが、ふと辺りを見回して、ささやくような声でいちに言った。
「奥様、かしこまりました。おっしゃる通りに仕上げておきます。それと、これを」
 三段重ねの立派なお重を風呂敷に包んだものを高橋がテーブルに置いた。
「ありがとう。助かるわ」
 いちがお重を手に取って言った。いちはこれから岡谷に住む知人がバーを開いたお祝いに行くつもりだった。松本一の売れるバーを作ったいちの手腕は地元で高く評価されており、あちこちから相談が来る。今回の店もいちがアドバイスをして無事開店にこぎつけたので、様子見がてらお祝いに行くのだった。

 ふと、いちは風呂敷の結び目の下に、二つ折りの小さな白い紙が挟まっていることに気がついた。開いて一瞥すると、はっとして高橋を見つめた。高橋は軽くお辞儀をすると、
「では私はこれで」
と調理場に戻っていった。いちはため息をつき和服の帯の間に白い紙を挟むとお重を抱えて、黒塗りの自家用車にゆったりとした足取りで向かった。
「岡谷駅に行ってちょうだい」
 お抱えの運転手が走らせる車で岡谷駅にやって来たいちは、到着しても知人のバーへすぐには向かわず、駅の横にある喫茶店に入った。きょろきょろと店内を見回して、店の奥の方に一人で座っている男性の前に立ち声をかけた。

「お前、突然どうしたの?」
 薄暗い店の中にいるというのに、パナマ帽を目深にかぶり、開いた新聞紙で姿を隠した息子の高藤隆治が、周辺を用心深く観察しながらいちに言った。
「誰にもつけられてない?」
 いちは隆治の向かいの席にゆるりと腰を下ろし、コーヒーを一つ頼むとため息をついて、帯に挟んだ白い紙をひらひらと振って見せた。
「大丈夫よ。それよりどうしたの? 高橋を使ってわざわざこんな場所で私と会うなんて。松本じゃダメだったの?」
 隆治は新聞紙を下ろして丁寧に畳むとテーブルに置いて、いちをすがるような目つきで見た。
「弘子が大阪に来ている。でもまだ帰りたくないって言ってるんだ。僕は年越しまで大阪にいるから、それまであいつをこっちに置いておくわけにはいかないだろうか?」
「やっぱり、そっちに行っていたのねえ」
 安堵していちは答えた。行方不明の義理の娘の身を案じていたが、夫の誉の想像通りに兄の隆治を頼って上阪したらしい。
 隆治が眉間にしわを寄せて、困り果てたように言った。
「弘子は僕が大阪にいる間は松本に帰りたくないってわがままを言っているんだ。そして僕を脅迫している……」
 いちはびっくりした。
「脅迫? どういうことなの?」
 隆治はがっくりとうなだれて言った。
「血のつながっていないきょうだいが同じ部屋にいて何もないわけがない。僕と男女の関係になったって、恵美にばらすって言うんだよ」
 へっ!?と声にならない声を上げたいちは、隆治を睨みつけた。
「ちょっと、お前まさか……!!」
 隆治が焦ったように両手を振った。
「違う違う! 何もないよ! そんなことはしていない。だけど、弘子が大阪にいることをおやじに告げ口したら、あることないこと恵美に話して、家庭を崩壊させてやるって……」
「全くもう!」
 いちは額に手を当てて呻いた。自由奔放な弘子は、他人をコントロールすることに躊躇がない。これまでも隆治や勝、バーのお客様など、自分に関係する人々を思い通りに動かすために、弘子は手段を選ばなかった。今回も隆治がせっかく築き上げた家庭を、卑怯な脅迫をして壊すつもりなのだ。もしも今、弘子を無理やり松本に連れ帰ろうとしたら、恵美さんまで巻き込んだ大騒動になるだろう。隆治のためにも恵美さんのためにも、産まれたばかりの哲治のためにも、それだけは絶対に避けなければならなかった。

「わかったわ。お父さんには私の方からうまく言っておくからねえ。お前は心配しなくて大丈夫よ」
 その言葉を聞いた瞬間、隆治の体から緊張が解けていくのがわかった。隆治が涙目になって言う。
「ありがとう! 本当に助かるよ!!」
 うんうんと優しい目で隆治を見つめて、いちが言った。
「あのねえ、弘子に伝えておいてくれる? 息子の正彦は首が据わりだして、毎日すくすく大きくなっているわよって。でも正彦はお母さんを恋しがっているから、年を越したら必ず松本に帰ってきなさい。みんな心配しているのよってねえ」
「わかった。必ず伝えるよ」
「それと、はい」
 懐から財布を取り出すと、いちはまとまった札束を隆治に手渡した。
「弘子がいるんじゃ、何かと物入りでしょ。恵美さんに今月分の給料が少ないと思われたら困るだろうから渡しておくわ。1か月分よねえ……。これくらいで足りそう?」
 隆治は両手で恭しくお金を受け取った。
「うん、大丈夫。ありがとう」

 カップに残ったコーヒーを飲み干すと、いちはお重を抱えて、よっこらしょと席を立った。
「じゃあ私はもう行くわ。弘子には年明けに戻るようによく言っておいてねえ。ああ、そうだわ隆治。大阪も師走になって寒さが厳しくなってきたんじゃない? お前はよく体調を崩すから、風邪を引かないように気を付けるのよ。うがいと手洗いを忘れないようにねえ」
 母親らしいおせっかいだけど愛情のこもった言葉で気持ちが緩んだのか、今日初めて隆治が笑顔を見せた。
「わかってる」
 立ち上がったいちは改めて息子を眺めた。学生の頃と変わらない、神経質で不安げな様子が少し気になるが、家庭を持ったことで貫録がついてきた。きちんと仕事もしているし、このトラブルを乗り越えれば、この子はきっと大丈夫だろう。
「今度は孫の哲治を連れて帰省しなさいねえ。楽しみに待っているから」
 言い残していちはゆったりと店を出た。カランカランとドアのベルが鳴った。
 
 後に残った隆治は、ドアが閉まっていちの姿が見えなくなると、脱力してテーブルに突っ伏した。
「よかった……」
 あとは大阪に戻って弘子にこの条件を飲ませれば問題解決だ。まさか1か月も大阪にいられるなんて、弘子だって思っていないだろう。はじめての子育てでうんざりしていたとしても、若すぎる弘子が働いて生きていくためには、結局松本に戻るしかないのだから。
 隆治は灰皿を引き寄せ、背広の内ポケットから取り出したピースに火をつけた。吐き出した白い煙が薄暗い店内をゆっくりと漂う。隆治は久々に穏やかな気持ちを取り戻していた。

#小説  #群像劇   #神経症  #1964年

 

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