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『Egg〈神経症一族の物語〉』第2部 第二十四章

 「そうそう。お向かいの佐藤さんの話、聞いてるかしら?」
 私こと高藤恵美が、買い物かごを持ってそわそわしていることに一切気がつくこともなく、隣の奥さんは向かいの佐藤さんの夫婦仲が疑わしいだの、ごみ集積所のカラスの被害がひどいだのというくだらない話を延々とし続けた。
 恵美は奥さんの話に適当に相槌を打っていたものの、本格的にイライラし始め、そもそもの話の発端になった息子の哲治の体たらくに心の中で怒りをぶつけ始めた。
 ――大体こんな風に噂話のネタになるのも、哲治ができの悪い子供だからよ。――
 話の切れ目切れ目で適当に相槌を打ちながら恵美は毒づいた。
 ――父親の隆治のように勉強ができるわけでもないし、母親の私のように美的センスが高いわけでもない。せめてスポーツくらいできるのかと思ったら、グローブでボールをキャッチすることすらままならない。
 妹の由美はできがいいのにね。私に似て可愛いし、隆治に似て頭もいい。両親のいいところをちゃんと受け継いだのよ。
 哲治はいったい誰に似たのかしら?
 それに普段はおどおどしているくせに、父親を相手にするときだけ爆発するように怒るのもうざったい。
 しかもそういう時には決まって私を恨めしそうに見て、それから黙って下を向くの。何を考えているのかさっぱりわからなくて気持ち悪いったらないわ……。――
 
 「ああそうだ。町内会で今度草むしりをやるみたいなのよ!」
 恵美の様子に気がつくこともなく、隣の奥さんが話し続ける。
 「え? 場所はどこですか?」
 我に返って恵美が尋ねると、奥さんが答えてくれた。
 「それがねえ、例のカラスのたまり場になってる長池公園なんですって! 大きな体つきのカラスがいて人間を襲ってくるらしいのよ。心配よねえ!」
 「本当にそうですねえ……」
 うんうんとうなづきながらも、恵美の頭の中は、小学校の頃とは比べ物にならないくらい成長した、息子のおぞましいイメージで一杯になった。
 ――そういえば、哲治はここ数ヶ月で急に身長が伸びたわ。口の周りにうっすらひげも生えてきてとっても汚いし、パジャマの裾から見えるすね毛が真っ黒く太くなっていて! この前気がついたときは、あまりのおぞましさにぎょっとしたわ! 
 そして何よりあの顔よ! 頬や鼻の頭に赤く膿んだニキビがぼこぼこできて見苦しくてたまらない。
 この前は隆治と哲治が大喧嘩になってしまったから、仕方なくあの子の肩に触れてなだめてみたけれど……吐き気がしたわ! 
 小さなころはここまで嫌じゃなかったのに。どうしてあんなに気持ち悪くなっちゃったのかしら……。――
 
 「高藤さん、大丈夫?」
 すっかり気分が悪くなって青ざめた私の顔を、隣の奥さんが心配そうに伺っている。
 恵美ははっと我に返って
 「いえ、大丈夫です。ごめんなさい」
と黙っていたことを詫びると、奥さんがいいのよと手を振って優しく言った。
 「もしも今度哲治君が外に出されるようなことがあったら、ご主人に内緒で哲治君をうちで預かるわよ。だから大丈夫。あなたはそんなに自分を追い詰めてはだめよ」
 「いえっ! ご迷惑をおかけするわけには!」
と焦って断り、ちらりと腕時計を見る。まずい、そろそろ由美が帰ってくる時間だ。
 「あの、申し訳ありませんが、そろそろ買い物に行かないと。由美が帰ってきてしまうので」
 隣の奥さんがあら!という顔をした。
 「ごめんなさいね。引き止めちゃって」
 「いえ、それでは行ってきます」
 挨拶もそこそこに、恵美は小走りでその場を離れた。
 
 角を曲がったところで歩みを止め、ふうっとため息をつく。
 口うるさい隣の奥さんに哲治を預けたりしたら、ますます頭が上がらなくなってしまう。哲治のために他人にこれ以上気を遣わさせられるのはまっぴらだ。
 
 買い物かごを反対の腕に持ち直すと、恵美は今までの話を振り切るように商店街に向かってすたすたと歩き始めた。

 

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