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『Egg〈神経症一族の物語〉』第五章

 「隆ちゃん、国際博覧会条約が動くらしいぞ」
 編集長の五十嵐重雄が高藤隆治を呼び止めた。
「え? それ本当ですか?」
 隆治は校正の手を取めて五十嵐を見る。
 このでっぷり太った四十代、『月刊激動』の編集長は、東京オリンピック記念のピースを箱から一本抜きとって、ライターで火をつけると、おもむろに話を続けた。
「ああ。去年、大平外務大臣が博覧会国際事務局のレオン・バレティ会長から、国際博覧会条約加盟について示唆されたろ。
 今回のオリンピックで、万博開催の機運が高まったことから、衆参両院への働きかけが本格化してるんだよ」
 隆治は本棚の大量に突っ込まれたファイルをがさがさと漁って、目当ての資料を探し出した。
「えーと、国際博覧会条約は1928年…戦前にパリで署名された条約なんですね。…あっ!これまで万国博覧会は、欧米でしか行われなかったのか。ということは!」
「ご明察!」
 五十嵐は吸い終わったピースを吸い殻のたまった灰皿に押し付けてにやりと笑った。
「東京オリンピックに続き、アジア発の万国博覧会開催になるんだよ。これは盛り上がるぞ!」

 狭い編集部がわっと盛り上がる。ライター含め十人ほどの小さい編集部だが、世の中の面白い動きを体を張って拾ってくる連中ばかりだ。オリンピックに続く快挙の予感で、皆興奮を隠せなくなっていた。
「じゃあ、早速大阪で取材ですね!」
 電車のチケットを取りに行こうとする隆治を五十嵐が呼び止めた。
「おいおい…隆ちゃん、奥さんが息子を産んだばかりだろ。さすがに行かせらんねえよ。健ちゃん、お前が行け!」
 うず高く積まれた書類の向こう側で白髪交じりの頭頂が動き、丸眼鏡でやせた矢田健一が首を伸ばして五十嵐を睨みつけた。
「はあ? なんで私なんですか?」
「いいじゃねえか。いつも隆ちゃんが飛んでるんだから、たまにはお前も行けよ。大阪なら実家も近いだろ。たまにはおふくろさんとこに顔出してやれって」
 矢田が凍るような目つきで五十嵐を睨んだ。
「顔を出しにくくしてくれたのは、どこのどなたでしたっけね?」
 五十嵐が頭をぼりぼりとかいて苦笑した。
「だから~、あれは申し訳なかったって思ってるよ。ってか、もう二十年も前の話じゃねえか。全くお前は、いつまでもねちねちと……」
 五十嵐の席の前までやってきた矢田は、ふてぶてしくふんぞり返る編集長を見下ろして冷たく言った。
「そりゃ、他人のあなたにとってはもう二十年、でしょうが、私にとってはつい先日なんです。軽々しく言われる筋合いはありません」
「あー、もうわかったよ~。まだ関西には行かないってのかよ。しょうがねえなあ。じゃあ、他に誰か行けるやついるかあ?」

 編集部に向かって叫んだ五十嵐の声を聞き、
「あの……」
と、隆治が手を挙げた。
「僕が行きます! 行かせてください!」
「だから、隆ちゃん」
 五十嵐が頭を搔きながらこっちを振り向いた。
「本当に大丈夫なのかよ?」
「はい!」
 隆治は自信満々で答えた。
「義理の母が入院中、妻の面倒を見てくれますし、その後は実家に3カ月戻りますから、僕がいなくても大丈夫です。むしろ……」
「もっと働いて、家族を安心させないと!」
 途端に編集部から「ヒュー!」「いいぞ~大黒柱!」「隆ちゃんカッコイー!」とヤジが飛んだ。
 あまりにまっすぐなことを言ってしまったことに気が付いて、おもわず赤面した隆治の肩を、五十嵐が爆笑しながらバンバンと叩いた。
「はっはっは! さすが隆ちゃんだ! 心が洗われたぜ!!」

 五十嵐の後ろでは、さっきまでの冷たい表情を作り切れなくなった矢田がぷるぷると肩を震わして、横を向いている。笑いをようやくかみ殺すと、隆治を見て言った。
「頼みましたよ、隆ちゃん。原稿の推敲は私がやりますので」
「え? 矢田さんが!? ありがとうございます! よろしくお願いします!!」
「よおし!」
 五十嵐が吠えた。
「俺の読みでは、国際博覧会条約は年内に衆参両院で批准される動きになる。隆ちゃん、3カ月奥さんが帰ってこないんなら、年越しまで大阪にへばりつけ! 必ずでかい動きがあるはずだ。スクープをものにしてこい!
 そして万国博覧会は、67年にモントリオール博があったことを考えても、1972年実施が妥当だろうが、近畿地方の盛り上がりが尋常じゃねえ。案外もっと早まるかもしれねえぞ。カッちゃん、通産省と日本商工会議所は頼んだぞ」
「ういーっす」
 加藤実がこれまた山積みのデスクの向こうで手を振った。
 皆が一斉に仕事にとりかかったのを見て、隆治は立ち上がった。
「新幹線の手配をしてきます」
「おう、奥さんにちゃんと話して来いよ」
 ピースを口の端にくわえ、黒電話のダイヤルを回しながら、五十嵐が隆治にひらひらと手を振った。

#小説  #群像劇   #神経症 #1964年

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