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『Egg〈神経症一族の物語〉』第二章

 分娩台の上でのたうち回っていた恵美は、突然股の間に熱湯があふれ出たのを感じた。途端にパンパンに膨張していた腹部が急速にしぼんでいく。
「先生、破水しました!」
 助産婦が落ち着いた様子で医師に伝えると、医師が様子を確認した。

「高藤さん、破水したのでこれから陣痛が強まります。あと一息ですよ。産まれてくるお子さんのためにも頑張りましょう」
「はい…」
 かすれた声で返事をしながら、恵美は虚脱感に襲われていた。
 喉から胃が出そうなくらいに膨れ上がった恵美の腹部は、今や寝ていても足先が見えるくらいに縮んでいる。こんなに小さくなったおなかのなかにいる生き物は、今どうやって生きているのだろう。このまま産まなければ死んでくれるのではないか、とちょっと期待した。
 途端、そうした考え自体が罪である、と言われたかのように、腹部から腰にかけて、これまでに感じたことのない激痛が美恵を襲った。

「いっ…痛い痛い痛い痛い痛い~!!!」
 暴れる恵美を助産婦さんが止めながら声をかけた。
「高藤さん、暴れないで! いきむのよ!! 痛みが来るときにいきむの! そうすれば赤ちゃんは下に降りてきやすくなるから!!」
「ううー!!!!」
「ああ、ちょっと待って。痛みが逃げちゃったわね。次に痛みが来たら、すぐにいきむのよ」
 ぜえぜえと肩で息をしながら、恵美は返事の代わりにうめいた。
 破水した途端、陣痛はこれまでは前座でした、と言わんばかりの痛みに豹変した。そして、再び陣痛が襲ってくる。
 恵美自身はまったく力を入れるつもりもないのに、陣痛に合わせて勝手に横隔膜から下の筋肉が背中に向けて押し付けられる。そして骨盤がめりめりと左右に開くように動き始めた。

「はい! 高藤さん、いきんで!!」
「くうううっ!!!」
 恵美がいきむと、おなかの中の塊がぐぐっと下がるのが分かった。
「そうよ! 高藤さん上手! その調子!!」
 途端に引いていく激しい痛み。だが、ほっとしたのもつかの間、寄せては返す波のように、恵美は再び痛みに翻弄された。
「あああっ…もおおお!」
 半分やけっぱちで恵美は再びいきむ。するとまたずるっと塊が下に移動する。
「いい調子よ!」
 助産婦さんが恵美を励ました。
「ま、まだなの…」
 あえぐ恵美をあざ笑うかのように、恵美の肉体はさらに骨盤を左右に開いていき、骨や内臓が分単位で筋肉の下を移動していく。
 そう、破水によって押された本能のスイッチのせいで、恵美の肉体は出産に全投入されていったのだ。
 いくら意志の力で出産を止めようとしても、生まれたい肉体と産みたい肉体のコラボは、貧弱な脳みそのくだらない考えを一蹴し続ける。もはや恵美は生ける機械のようになっていった。

「はい、いきんで!」
 数十分後、息も絶え絶えでいきむと、ずぼっと巨大な塊が股から抜け出すのを感じた。続いて、もう少し小さな長めのものがずるりと抜け出した。その後、もう一度弱めの陣痛が一度来て、小さめの塊が取り出された。
 ああ、終わったのだ…と、恵美はぼんやりとした意識の中で理解した。

「まずいな、これは…」
 医師と助産婦は顔を見合わせた。恵美がちらりと見やると、助産婦が抱えるタオルの中に、赤黒く小さな肉の塊が見えた。
「息をしていない。へその緒を首から外さなくては!」
 医師と助産婦が小さい肉の塊の首に三重に巻き付いている、ぶりぶりとしたへその緒を取り外し始めた。
 目を閉じてぴくりとも動かない血だらけの赤い肉体。でも何より気持ち悪かったのは、チリチリとした真っ黒い頭髪が、陰毛のようにびっしりと生えていることだった。
 へその緒を取り外し終わっても、まったく泣かない様子をみるや、医師は足首をがっとつかんで、その肉体を逆さまに吊り上げた。そして、パンパンとお尻を叩き始めた。

 なんだ、死んでるんじゃない。
と恵美は動かない肉体を見ながらふっと笑った。
 ああ、よかった。お義父さんは怒り狂うだろうが、知ったこっちゃない。 私は産みたくなかったのだ。それを妊娠したとわかった途端、出産することを強要したのはあのじじいだ。これも運命ってことだわ…。
 医師たちの必死な様子から目を離し、恵美は病院の天井を見つめた。
 恵美の頭の中に、隆治との二人だけの甘い生活が蘇る。これでまた隆治の腕の中でゆっくり眠れるのね…。

「おぎゃあ! おぎゃあ! おぎゃあ!」
 しかし、獣のような鳴き声が、恵美の甘い幻想を切り裂いた。
「高藤さん、赤ちゃん、無事でしたよ! ほら、可愛い男の子!」
 助産婦が満面の笑みでタオルにくるまれた赤ちゃんを恵美に差し出した。
 しぶしぶと恵美は腕を伸ばす。ずしっとした重さが腕に伝わってきた。真っ白くて柔らかいタオルの中には、さっきとは打って変わって、小さい顔を真っ赤にして全身を使って泣き叫ぶ男の赤ちゃんがいた。
 恵美が抱っこの仕方もわからないのを見て、助産婦さんが恵美の腕を取った。
「さあ、左腕を赤ちゃんの首の下に回してね。まだ首が座ってないから、抱っこするときは首を動かさないように気を付けて」
 恵美が体を起こしてようやく抱っこした様子を見ると、助産婦さんは「で、ちょっと失礼するわね」
 と言って、恵美の胸元を開いて乳房を引っ張り出した。
 恥ずかしくて戸惑う恵美に助産婦が説明する。
「赤ちゃんはおっぱいが欲しいのよ。さあ、乳首のところに赤ちゃんの口を持っていって」
 恐る恐る泣き続ける赤ちゃんを持ち上げて、乳首のところに持っていくと、自分の口の大きさと変わらないくらい大きな乳首に、赤ちゃんが口を開いて吸い付いてきた。
 途端に乳房の奥がつんとして、なぜか子宮がきゅっと縮んだ気がした。
 同じタイミングで恵美の後処置を終えた医師が言った。

「今後は粉ミルクを与えることになるので、調乳の方法や哺乳瓶の使い方は看護婦から説明させますね。今日は本当におめでとうございます。後処置は終わりましたので、病室に戻りましょう」
 おとなしくなった赤ちゃんを助産婦さんが抱える。
「赤ちゃんの診察が終わったら、病室に連れていきますね」
 まだ一度も目を開かない黒い巻き毛の赤ちゃんは、助産婦さんの腕の中で満足げに眠っている。
 赤ちゃんの高い体温と湿り気から解放されてほっとしたのだろう、途端に恵美のおなかがぐーと鳴った。
「ご飯にしましょうね」
と、看護婦が笑う。つられて恵美も照れ隠しに笑った。



この小説は「小説家になろう」ミッドナイトノベルズ(大人向け)でも連載しています。


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