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『Egg〈神経症一族の物語〉』第三章

 病室で恵美がぐっすり眠っている間に、隆治は両親を連れて新生児室をのぞきに行った。
「えーと…高藤恵美。あった、ほら、あそこだよ」
 隆治が指さした先には、黒々とした立派な巻き毛の生えた赤ちゃんがすやすやと眠っている。
「おおう…。恵美さんでかしたな。儂の跡継ぎの誕生じゃわい」
 先ほどまでの息まいた様子が嘘だったかのように、誉は目を細めて、好好爺の笑みを浮かべた。
「隆治と同じ、黒い巻き毛だねえ。やっぱり遺伝なのねえ」
と、のんびりした口調でいちがしみじみ呟く。
「高藤家の血が濃いっちゅうことじゃ。
隆治、あの子は立派な男にせねばならん。お前のように頭ばかりよいだけではいかんからな!」
と言って、誉は豪快にかっかっかっと笑った。
 途端に、ガラスの向こうの跡継ぎが声を限りに泣き始める。高藤家の血のつながりは隆治を飛び越えて続いている、そう思わせる共演だった。

「そういえば、恵美さんのお母様はどちらに?」
といちが隆治に尋ねた。「産後の準備がいろいろと必要だから、今朝早くに一旦自宅に戻ったんだよ。そろそろ戻ってくる頃だと思う」
「あら、ご挨拶がしたかったのに、残念だわ」
「もう行くの?」
「ええ。今日は東京で用事があるのよ」
 そう言うと、いちはつと背筋を伸ばし、襟を正した。そうか、海道組の親分のところだ。でなきゃ、この二人の正装はあまりに不自然だ。
「せっかく東京まで出てきたのに、どこにも案内できなくて…」
 隆治が詫びると、いちが微笑んだ。
「いいわよ。初孫が拝めたんだから、それで十分。これから大変になるんだから、恵美さんを大事にしてあげなさいな」
 ああ、おふくろはいつもこうなんだ。
 隆治はゆったりとした歩き方をする母親と、肩で風を切って偉そうに歩く父親の後ろ姿を見送りながら、考えていた。

 ――――高藤組。
 それが、信州の片田舎で誉が立ち上げたテキヤ一家の名前である。
 戦中の関東大空襲で、家族を失い戸籍すら灰燼に帰した高藤誉は、信州で露天商を営み始めたときに、高藤という苗字を自分でつけ直した。最初は高藤勝利としていたらしいが、そのうち飽きたようで名前をどんどんと変えていった。
 そして第2次世界大戦の最中にも、中国に亡命するために再び名前を一新した。当時の誉にとっては、負け戦に突入する大日本帝国は間違っているように見えたからである。
「これからは社会主義の時代だ。儂は社会主義を学んでくる!」
と言って、妻のいちを日本に残し一人中国へ渡ろうとしたのだ。
 しかしどこからか誉の亡命がばれた。新潟の空港で憲兵たちに銃口を突き付けられた誉は、和服の胸元をがばと開いた。腹にはダイナマイトが何本もぐるりと巻き付けられている。ひるんだ憲兵に誉は叫んだ。
「撃ってみやがれ! この距離じゃてめえらも助からねえ! 全員道連れだ!!」
 恐れをなした憲兵たちは誰も発砲することなく、誉は無事に中国に亡命した。
 その後、誉が帰国したのは終戦直後で、何食わぬ顔でいちのもとにひょっこり帰ってきたのだという。
 また、この男は戦後の松本城改修の際に資金集めで手腕を発揮した。当時の資産家や政治家に働きかけ、松本城の天守閣で芸者遊びと決め込んだのだ。接待された客たちから多額の資金援助があり、無事に松本城の改修ができたのだという。
 だが、いずれの武勇伝も世の歴史には現れぬ影の話であり、誉が本当のことを言っているのか、隆治にはよくわからなかった。

 そんな誉であったが、今は夜の仕事を生業として中越一帯の裏稼業を仕切り、この業界では高藤誉という名前で通している。
 あるとき隆治は誉の本名を教えてほしいといちに頼んだことがある。驚いたことに、妻であるいちも誉の本名を知らなかった。二人が知り合ったころには誉は既に高藤姓であり、元々は別の名前だったと聞いたことはあるが、それがどんな名前なのかは絶対に教えてくれなかったのだという。
「それにねえ、結婚したてのころはしょっちゅう改名するから、はて、今はどの名前を使っているんだっけ? って、よくわからなくなって困ったわよ」
といちは笑っていた。その話を小耳にはさんだ誉は
「何度変えたっていいだろう。商売は世間様から良い評判が立つことで成り立つものじゃ。高藤誉という名前にしてから、売り上げも鰻登り。やはり名前は大切じゃわい」
と火鉢の前で煙管を燻らせながら、しみじみと語るのであった。
 このように人生の荒波を豪快に乗り越えてきた誉は、怒りっぽく頑固ながら強烈なカリスマ性を持つ人物である。そしてこの男の強烈なオーラに惹きつけられたかのように、誉といち、隆治だけでなく、様々な生い立ちの人々が広いお屋敷の中に住んでいるのだ。

 まずは義理の妹の弘子だ。
夫を早くに亡くした女性が一人で弘子を育てていたのだが、魔が差したのか、戦後日本を襲う貧困に耐えられなくなったのか、弘子を置いて行きずりの男と蒸発した。
 残された弘子はゴミ捨て場を漁っていたところを、誉に拾われ、養子にされたのだ。
 弘子と隆治は年が6つ違った。だから、話も全く合わず、兄妹になったとはいえ、ほとんど話もしたことがない。だが、最近は地元で評判になるほど美しい女に成長し、様々な男たちと浮名を流すようになっていた。
 誉は隆治には猛勉強をさせて、東京の大学に進学させた。だが、中学生になった弘子には、自宅で営業しているスナックで毎晩働くように命令した。
「女に学問は必要ない」
というのが誉の言い分で、高校を出たら自分が営業する店の一つを任せるつもりであったのだ。
 しかし、弘子は荒れた。いつの間にか男の味を知ってしまった弘子は、とっかえひっかえ、何人もの男と関係を結び続けた。
 そして、恵美が出産間近になったころ、弘子が妊娠した、という話がいちから隆治に伝えられた。
「相手が誰だか、どうもはっきりしなくてねえ…」
 受話器越しにいちのため息が聞こえてきた。
「お前のところのように、手放しでは喜べないわねえ…お父さんも怒っていてねえ。うちの中は大変よ…」
 ぐったりと疲れたようないちの声に、隆治はいたく同情し、帰ったほうがよいかと尋ねると、
「奥さんの恵美さんがこれから大仕事をしなければならないんだから、お前は東京にいないとダメよ。こちらは大丈夫だから」
とあっさり断られてしまった。

 さて、そんな母のいちは信州の比較的大きい商家の娘である。おっとりした物腰は、裕福な暮らしで培われたものであったが、その奥底には信州の女らしい、固い芯が見え隠れしている。
 それは許婚との結婚が決まっていたのに、誉と大恋愛をして駆け落ちしたことからもわかる。いちはたとえ一族を裏切ってでも、人生をかけて誉を献身的に支え続けると腹を決めて生きてきたのだ。

 だが、こんなしっかり者の妻がいるにも関わらず、誉は自宅の別棟に二号さんを囲っていた。
 着物が似合う、もちっとした白肌の美女で、名前を良子と言った。隆治が物心ついたときには、良子がすでに自宅に住んでいたので、身内のおばさんだと思っていたほどだ。
 良子は自分の美貌を磨くことに余念がなく、化粧品や宝飾品をそろえるために金に糸目をつけないタイプであり、自分が欲しいものややりたいことがあると遠慮なく誉におねだりする性格であったが、同時に誉から駅前一等地の店を任されて繁盛させているやり手の経営者でもあった。

 誉はそんな良子のもとで週に3度泊まる生活を数十年続けている。おふくろは嫌な気持ちにならないのだろうか…と、事情がわかってから隆治は気にするようになっていたが、当のいちは素知らぬ顔を貫いていた。
 誉の方からすると、場に応じて二人を使い分けられるのがよかったらしい。海道組の親分に会いに行くような、一家の体裁を重んじるときはいちを連れて行き、地元の名士との派手な接待があるときは美貌に恵まれた良子を連れていた。
 親分ともなるとたいして重要でもない場に顔を出すことも多いが、家の中も子分が多く、細やかな気遣いが欠かせない。二人のおかみがいれば、手が足りなくなることもない、というのが誉の言い分であった。

 家族として付き合いがあるのはこれだけであったが、ほかにも子分たちが入れ代わり立ち代わり10人程度別棟で暮らしている。中には、知恵遅れで家族から捨てられた、勝という隆治と同い年の男もいた。
「お坊ちゃん、おひゃようごだいまふっ」
 毎朝早くから、ほうきで門の前を掃除するのが勝の役割であった。隆治が出かけるときは、舌足らずの話し方で元気に挨拶をし、直立不動の姿勢から90度腰を曲げてぺこりと挨拶をする。
「おはよう」
と隆治が挨拶を返したときには、もう勝の心はどこかに行ってしまうのか、こちらを一切見返さず、またひたすらにほうきで目の前の地面を掃き始める。
 この様子が気味悪いと言って、幼いころ妹の弘子はずいぶんと嫌がっていたが、そんなに気にするものでもないだろう、と隆治は感じていた。

 ともあれ、裏社会で勢力を伸ばしている高藤家は、隆治の幼いころから、温かい安心できる家庭というよりは、弱いものたちが三々五々集まってくるテキヤ一家としての組織を成している場所であった。
 そんな環境で育つ中、隆治が願ったのは、
ごく普通の家庭を築いて、幸せな日々を手に入れたい。
という一事であった。
 そして、東京の大学に進学することを許され、恵美と出会ってから、隆治の中でその理想がどんどん具体性を帯び始めた。
 恵美は漆黒のストレートのロングヘアが美しい女で、オノヨーコを思わせる雰囲気をまとった、美大の学生だった。純喫茶で働いている恵美を見て、隆治は一目ぼれしてしまった。

「あの…よかったら、今度僕と食事に行きませんか?」
 恵美が隆治の会計をしているとき、隆治がいきなりデートに誘った。
 突然のことで驚いた恵美が、渡しかけたおつりを床に威勢よくばらまいてしまい、二人で慌てて拾って、笑いあった。その時以来、二人はお互いを深く愛しあうようになったのだ。
 そして結婚し、翌年には出産。
 これで僕にも、憧れていた幸せな生活がやってくるんだ。
 隆治は、新生児室の黒い巻き毛の赤ん坊を見つめながら、微笑みがこぼれるのを止めることができなかった。


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