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『Egg〈神経症一族の物語〉』第2部 第十二章

 たった1日だけど、丸一日初めての環境で勉強したせいで、また頭痛がひどくなっていた。
 それにかなりがっかりした。塾長の石塚先生が言いたいことはわかるんだ。自分でも丸暗記じゃない勉強法を身につけたいと思っているんだから。
 だけど、それがどれだけ大変なことか、オレこと高藤哲治は1日目にして骨身にしみてわかってしまった。
 一番悲惨なのは英語だ。英語はよその国の言葉だから、まずは単語を丸暗記しないことには話にならない。そこはまあ妥協しよう。
 でも、その次段階として、文法のルールを理解したらそれで問題がすらすら解ける、ということには絶対にならないんだ。
 
 例えば現在完了の文章は、過去から現在までの時間を表現するためにhaveを使うんだという。なんでhaveなんだ? 
 「haveを使うのは、過去から現在までの時間を『持っている』という意味だからだよ」
と英語の先生が説明してくれたから、オレは質問した。
 「じゃあそのあとに続く動詞が過去分詞とかいう、現在形でも過去形でもない形になるのは何でですか?
 それと……過去分詞って単語によってはルール通りに変化しないものがたくさん出てくるんですけど、何か理由があるんですか?」
 しょうもない質問をしてくるんじゃない、と言いたそうな表情で先生が答えてくれた。
 「高藤君、ルールはルールとして丸暗記した方がいいよ。理屈を考えていると、いくら時間があっても足りないからね」
 そのセリフでぷちんとやる気の糸が切れた。なんだよ、結局丸暗記しないとダメじゃないか。
 そのあとは、いつも通りの勉強の仕方に切り替えた。何も考えずに丸暗記だ。スピードは上がるけど、解いた端から何を解いたか忘れてしまう。このくだらない繰り返しの勉強をオレは丸8時間やり続けることになった。
 
 夜7時になりオレは塾を出た。まだ空は明るめで大気にはむっとした湿気がこもっている。
 繁華街は夜になると姿が一変する。ぎらついたネオンライトに照らされた薄着の女性のエロい看板の前で客引きするいかつい男たちの張り上げた声が耳に刺さり、混雑している居酒屋からは、最近大流行しているピンクレディの『モンスター』が大音量で流れてくる。
 チカチカガンガン!
 光と音が大洪水になって押し寄せてくるせいで、オレはますます頭が痛くなった。
 
 さっさと通り抜けようと、オレは速足で歩き始めた。
すると突然、「オオッ!」という興奮したどよめきが聞こえた。ふとそちらに目をやると、真新しいお店の前に男性の人だかりができているのが目に入った。
 「インベーダーハウス?」
 店はガラス張りで妙に暗い。中にいるお客さんは一人ずつテーブルの前に座り、側面で手を激しく動かしている。テーブルはガラス板になっていて、赤や青の光がせわしなく動いている。
 そして店の入り口前の若い男性ばかりが集まっているところには、人の身長より背の高い派手なペイントをされたゲーム機が立っていた。
 オレは人だかりの隙間からゲーム画面をちらりと覗いて、衝撃を受けた。
 「絵が『動いてる』!!!」
 
 駄菓子屋にもゲーム機はあるけど、弾が当たるとゲーム盤の裏に仕込まれた電球がついて、もともとそこに書いてある絵が浮き上がる仕組みだ。
 でもこの「スペースインベーダー」は違う。まるでアニメのようにキャラクターが動いているんだ! 
 デゥッダッ、デゥッダッ……という重低音の音に合わせて横に11匹、縦に5匹並んだインベーダー軍団が、軍隊のように固まりになって移動しつつ、最下層にいるプレイヤーにミサイルを次々と放ってくる。
 プレイヤーは敵の攻撃をよけながら、自分のビーム砲をインベーダーに当てて全滅させなければならない。
 だがインベーダーは数が減ってくるとスピードアップして、プレイヤーがビーム砲を当てるのが一気に難しくなる。
 すべての敵をやっつけられずにプレイヤーがいる最下層に到達されてしまうと、ゲームオーバーになるんだ。
 
 それに、時にはUFOまで飛来する。
 UFOはチュオオチュオオという独特の高音を響かせながら、ゲーム画面の一番上を素早く走り抜けるんだ。他の敵キャラの攻撃をかいくぐってUFOにビーム砲を当てるのはかなり難しそうだ。
 だからUFOを撃墜すると、ボーナスポイントがもらえる仕組みにもなっていた。さっきみんながどよめいたのは、ちょうどこのときだったらしい。
 
 中学生になって背がぐんと高くなったのが役に立ち、人だかりの後ろの方でもオレはゲームの進行をほぼ全部見ることができた。
 そして夢中になって見ているうちに、さらにすごいことがわかってしまった。
 このゲームは上手な人ならお金を追加しなくてもいつまでも遊んでいられるゲームなのだ! 
 ゲームの1面をクリアする条件は、インベーダーの全滅だ。全滅できるとゲームはそのまま2面に進む。
 今度は敵が1段下にいる状態からスタートだ。すると敵が最下層に降りてくるまでの時間が短くなって、ゲームがぐっと難しくなる。
 この2面をクリアすると、次は3面、その次は4面へ……とずっとゲームが続けられるというわけ。
 たった100円で5面まで進んだ若いサラリーマンは、インベーダーハウスのヒーローになっていた。
 
 ―羨ましい! オレもやりたい!!―
 ふと気が付くと、ネオン明かりの向こうの空はすっかり暗くなっていた。30分くらい立ち止まっていたらしい。
 夜遅くなるとまたお父さんに怒鳴られる。慌てて帰り道を走り出したけど、オレの心はスペースインベーダーで一杯になっていた。
 
 ―明日は100円を持ってこよう。一度でいいから挑戦してみたい!―
心臓がどきどきと飛び跳ねて、気が付いたら全速力で走りだしていた。

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