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『Egg〈神経症一族の物語〉』第十章

「シキュウ デンワクレ」
 実家から父である高藤誉の名前で、大阪のアパートに電報が届いたのは、弘子が来て5日も経った頃だった。
 高藤隆治は仕事の合間を縫って、十円玉を大量に用意して、街角の煙草屋に立ち寄った。煙草屋の前に出されている赤電話に近寄ると、店のレジスペースに静かに座っている老婆がひざの上のトラネコを撫でながら、こっちをじいっと見つめてきた。隆治はなぜか悪いような気がして、
「すみません。電話をお借りしてもいいですか?」
と丁寧に尋ねてみた。するとその老婆はしげしげと隆治の顔を眺めて、
「どうぞ」
と、赤電話を指さした。隆治は軽く会釈すると受話器を取って実家の電話番号をダイヤルした。
「交換台です」
「あの、長野県松本市の……」
 言いながら隆治は十円玉を投入口に放り込んだ。大阪から松本まではざっと四百キロくらいある。おそらく十秒に一枚の割合で十円玉が消費されてしまうだろう。隆治はパンパンになった小銭入れから十円玉を一枚取り出し、すぐさま放り込もうと構えて、電話がつながるのを待った。
 しばらく待つと、受話器の向こうから懐かしい声が聞こえてきた。
「もしもし、隆治なの?」
「そうだよ。おふくろ、電報なんか寄越して、何かあったの?」
 次から次へと十円玉を投入しながら隆治が尋ねると、母である高藤いちが困ったような声で話し始めた。
「変なことを聞くんだけど……。そっちにねえ、弘子が行ったりしていないかしら?」
 ぎくりとしたが、平静を装って隆治が答える。
「え、弘子? 来てないけど……」
「それがねえ、あの子ったら正彦を生んでしばらくしたら、書き置きを残して家から出て行ってしまったのよ」
「正彦って? ひょっとして弘子の……」
「ええ、無事に男の子が生まれたのよ。弘子も最初のうちはお人形でおままごとしているみたいに甲斐甲斐しく世話をしていたんだけど、そのうち私に任せっぱなしになってしまってねえ。それを見たお父さんが弘子を叱ったら、次の日、弘子がいなくなってしまって」
 隆治はアパートで待っている弘子をふと思い起こしたが、頭の中の姿を振り払って、何も知らない振りを続けた。
「うわあ、それは大変じゃないか。じゃあ、僕のところに弘子が来たら、すぐに松本に戻るように言うよ」
 受話器の向こうでいちがため息をついた。
「そうしてくれると助かるわ。……あら! お父さんどうしましたか?」
突然、受話器をひったくるような音がしたかと思うと、男性の怒ったような声が聞こえてきた。
 
「儂じゃ」
 父である高藤誉の威圧的な声に隆治は思わず緊張して受話器を固く握りしめた。
「弘子の書き置きには、大阪のお前のところに行くと書いてあった。本当にまだ行っとらんのか?」
「はい。弘子が家出をしたことも、この電話で初めて知って驚いたくらいで」
「ふん」
と受話器の向こうから、誉が鼻で笑うのが聞こえた。
「お前は子供のころから頭の良さを鼻にかけて嘘がうまい。実はもう弘子をかくまっているんじゃなかろうな。そうだとしたら、ただじゃ済まさんぞ」
 脅しの効いた低い声に、隆治の胃はぎゅうっと締め付けられ、額には冷や汗が浮かんだ。隆治は頭をフル回転させて、どう言えばこの状態から逃れられるかを必死で考えた。
「まさか、そんなこと! ああ、そうだ。案外弘子のことだから、大阪に行くと書き残して、お客さんを頼って東京にでも行っているんじゃない?」
「それはない」
 確信のある声で誉が答えた。
「可能性のある伝手はしらみつぶしに調べたからのう。弘子に入れ込んだ客は儂も把握している。東京であいつが行きそうなところは昨日一杯で全て調べ終わったわい」
 隆治は改めて誉の粘着質な性格を思い起こしてぞっとした。
 納得いかないことが起こると、いつも誉は子分を総動員して、徹底的に原因や起きたことを調べ上げる。神経質な性格でもあるから、とことん細部にわたって確認しないと気が済まないのだ。
 そのせいで、隆治は子供の頃から誉の子分たちに一挙手一投足を見張られていた。だから、危ないからと誉に禁じられた、湖でのスケートに友達と内緒で行ったり、対抗勢力だからと付き合うことを禁じられた女の子とデートをしたりするたびに、隆治の行動は誉に筒抜けになり、いつも叱られることになったのである。
 そういうときの誉の怒り方はすさまじい。頭ごなしに隆治が悪い理由をいくつも挙げてとことん決めつけ、逃げ場のない状態に追い込んでから、今度は隆治の性格に問題があると攻め挙げて、とことん劣等感を植え付けるのだ。
 それは誉が無意識に隆治へ行っているマウンティングだった。学のない誉は、頭のいい息子を誇りに思うと同時に引け目も感じていた。自分が勉強をほとんどしたことがないことで、息子に馬鹿にされることを怖れていたのである。
 しかしそれだけが原因ではない。誉が烈火のごとく怒り、隆治を徹底的に追い詰める最大の引き金は、隆治の臆病さにあった。実は誉自身も神経質で繊細なところがあり、若いころからそれで悩んでいたのである。だが誉は自身のひ弱な性質をよく理解していた。自分の怯えがちな弱い部分を他の多少マシな部分にぎちぎちと縒り合せて、外からは大胆不敵な性格に見えるように化粧を施した。この作戦が功を奏して、誉は戦後日本の裏社会で成功することができたのだ。
 だが、よりによって自分の後を継ぐ息子に、あの唾棄すべき弱さが引き継がれてしまった。隆治と話していてこの事実を知った誉は、発狂しそうな気持ちになった。
「隆治にはもっと強さが必要じゃ」
 昔の弱い自分と隆治を重ね合わせ、誉は隆治が失敗すると、ここぞとばかりに攻撃をした。全ては愛する息子を鍛えるためである。しかも誉は、弱い人間がどうやって攻撃から逃れようとするかを熟知していた。だから隆治への追及はすさまじく、どこにも逃げ場のないものになってしまったのである。
 そんな風だから、隆治は誉に怒られることを極度に怯えるようになり、誉を怒らせるような出来事に出くわすと、つい嘘をついて逃げ出すようになった。しかしその態度が、誉の怒りに更に火をつける悪循環を生み、隆治はさらに精神的に追い込まれたのである。
 
 赤電話の前で口の中がからからになった隆治は、胸の動悸と手の平にじんわりとにじむ汗の気持ち悪さを感じながら、ありったけの知恵を振り絞って誉に言った。
「それで僕のところに来ていると? でも、もし来るつもりだとしても、本当にまだこっちには来ていないんだよ。万が一大阪に弘子が来たら、必ず連絡するから」
 実はこういうときの隆治は、嘘をついている自覚がない。嘘を真実だと信じ込んで話をすることが癖になっているからだ。今や隆治の頭の中からは、アパートで肉体をぶつけ合った弘子の存在はすっぽり抜け落ちて、空っぽのアパートのイメージと妹の行方を心配する優しい兄の思考だけになっていた。
 隆治は小銭入れにたくさん入っている十円玉を見ながら焦ったように言った。
「ああ、もう十円玉が切れそうだ。話は分かったから、また電話するよ」
「そうか……。弘子は松本から出たことがないから、頼れる場所は限られている。十中八九お前のところに行くはずだ。連絡がなかったらそっちに人を送るから、くれぐれも連絡を怠るんじゃないぞ」
 まだ疑っているような声ではあったが、この話は一旦終わりになったらしく、次に誉は別の話をし始めた。
「おい、隆治。お前の名前の由来は覚えているな」
「はい、何度も聞いているので」
「儂が一代で『隆』盛させた高藤家を二代、三代と未来永劫続けていくために、二代目のお前には高藤家の土台をしっかりと『治』められるようになってほしいんじゃ。マスメディアへの就職を許したのも、これからの時代は情報が権力になると思ったからじゃ。お前は頭の良さを生かして、情報を扱うことで高藤家に力と金を流れ込ませ、三代目の哲治が大きく成長できる土壌を作ってやってほしい」
「それはもちろん。僕の息子のためでもあるんだから、全力で働いているよ」
「うむ。哲治は儂に目つきが似ているからな。必ずや儂の跡を継ぐ大器になるじゃろうて。哲治には立派な教育を受けさせて高藤組を更に盛り立てもらわねばならん。親としてのお前の責務は重大だぞ」
「はい、肝に銘じています」
「くれぐれも頼んだぞ。では弘子がそっちに行ったら、必ず連絡をしろ。すぐにだぞ、いいな」
 
 ガチャリと電話が切れた。手汗でべたべたになった赤い受話器を電話に戻し、煙草屋の老女に会釈すると、隆治は店を後にした。
 と、突然隆治は後ろを振り返り、周囲に視線がないかを素早く確認した。
「今のところは大丈夫そうだな……」
 ほっと肩を落として隆治は再び歩き始めた。
――今は東京から子分たちを撤収させるので手一杯だろうが、僕から連絡をしなければ、間違いなくここ大阪に子分たちを送り込むはずだ。そうなる前に、弘子をなんとかして松本に戻さないといけない。だが、男と女の関係になったことをネタに弘子が僕を脅してくるのではないだろうか。帰郷を無理強いしたら、妻の恵美に浮気をバラされるかもしれない……。――
 どうしたものか、と隆治は歩きながら真剣に考え続けた。優秀な頭脳はここぞとばかり、猛スピードで回転したが、いい考えはなかなか思いつかない。そのうえ、誉そっくりの目つきをした哲治の顔が目の前にちらついて離れなくなってきた。
 
 突然、地面がぐるりと回転した。倒れまいと焦って伸ばした手が電柱に触れ、隆治は必死になって灰色のコンクリートの円柱にしがみついた。はあはあと荒い息をしながらじっとしていると、誉に首を絞められ喉が潰されて息絶える自分の姿と、それを無邪気に笑って眺める弘子と哲治のイメージが湧きあがった。
「……うううううっ!」
 心臓がナイフで真っ二つに切り裂かれるような痛みに襲われ、脂汗が汗腺という汗腺から噴き出してくる。隆治は耐えきれずにうめき声を上げた。
――いつものやつだ。慌てるな。息を吸って、吐いて。ゆっくり、ゆっくり――
 誉と話をした後、隆治は決まってこんな状態になる。学生の頃は息ができずに倒れることもよくあったから、母のいちが深呼吸をするように教えてくれていた。隆治は背中をさするいちの温かい手を思いながら、ゆっくりと呼吸をした。
「ふうううう」
 電柱に頭をもたれて深い息を吐くと、ぐるぐる回る地面は次第に元に戻り、玉のような汗も収まってきた。
 普段はこれで自分を取り戻すことができるのだが、今日はこれで終わらなかった。隆治はこれまで経験したことのない激しい怒りのマグマが、体の奥からどくどくと噴き上がるのを感じた。
「ぬううっ! あいつらはみんな僕の敵だ!」
 ぶるっと震えて隆治は唸った。父や妹だけでなく、まだ生まれたての赤ん坊の哲治にも、隆治はいつしか怒りと憎しみを感じていた。それはおそらく自分を守るための行動だったのだが、初めて感じる嵐のような怒りの感情に隆治はひたすら翻弄された。そしてイライラを解消するように親指の爪を無意識に歯でむしり取り、ぺっと路上に吐き出した。
「なんで僕があいつらの犠牲にならなきゃいけないんだ。僕は…僕は生贄の羊じゃない! ふざけるな!!」
 怒りで頭の血管がどくどくと脈打つ。辺りの街並みは薄っぺらい紙に描かれた絵のようにしか感じられない。隆治は足から怒りが噴射して空に飛び出しそうな勢いで、大阪の街を猛然と歩き出した。

#小説  #群像劇   #神経症  #1964年

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