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『Egg〈神経症一族の物語〉』第十四章

 1月2日。奮発して大阪から新幹線ひかりに乗り、東京にわずか4時間で戻った高藤隆治は、その足で五十嵐編集長の自宅に顔を出した。夕飯までにはまだ時間があるときで、奥さんと小学生の子供たちは公園で凧揚げをしている。隆治は五十嵐の自宅のリビングに向かい合って座った。

「あけましておめでとうございます」
「おう。大阪の方は片付いたか?」
 隆治が持参した御年賀の日本酒を受け取りながら五十嵐が尋ねた。隆治が答える。
「はい。妹の弘子は昨日大阪を立ちました。ご迷惑をおかけいたしました」
「奥さんはいつ東京に戻るんだ?」
「明日、妻の実家に迎えに行こうと思います。明後日には一緒に帰宅しようかと」
「そうか……」
 ため息の代わりなのか、五十嵐は煙草を目いっぱい吸い込んで、ふううっと煙を吐き出しぼりぼりと頭をかいた。煙が消えていく様子をじっと眺め、隆治が言った。
「つきましては、こちらをお受け取りください」
 隆治が背広の内ポケットから封筒を取り出す。そこには「退職届」と書いてあった。
「おいおい、隆ちゃん! またえらい突然じゃねえか!」
 うろたえた五十嵐の姿をちらっと見たあと、退職届の字面に視線を落とし隆治は言った。
「この度は僕が妹に対して優柔不断な態度を取り仕事に専念できなかったために、編集部に大変なご迷惑をおかけしてしまいました。加藤さんにも何度も大阪まで来ていただき、最後には編集長にまで……。僕としてはけじめをつけてお詫びをする以外にありません。誠に申し訳ございませんでした」
 土下座をする隆治に五十嵐が言う。
「隆ちゃん、辞めるといってもこの後はどうするんだ? 奥さんと息子がいるだろう。生活費はどうするつもりなんだ? 俺としては、東京に戻って奥さんに支えてもらえたら、いつもの隆ちゃんに戻るだろうと思ってたんだぜ? 禊の仕方は辞めるだけじゃないと思うんだが……」
 温かい五十嵐の言葉に思わず涙ぐんだ隆治だったが、袖で涙を拭くと言った。
「ありがとうございます。そう思っていただけるなんて僕は幸せ者です。ですが、それでは僕自身が納得できないのです。欲に負けた自分を鍛えなおす必要があります」
 隆治の覚悟をきめた顔をじっと眺めていた五十嵐は「くそまじめだな」と呟いてふっと笑った。火のついた煙草を灰皿に押し付け、机に置かれた退職届を手に取った。
「わかった。これは預かっておこう」
「今までありがとうございました!」

 深々とお辞儀をする隆治を見て、五十嵐は尋ねる。
「それで、これからどうするつもりなんだ? 仕事のあてはあるんだろうな?」
 隆治の目がふと宙に漂った。思案しているらしく、言葉を探しながら話し出す。
「どう伝えたらいいのか……。ええと、大きな話からになりますが、構いませんか?」
 隆治からの問いに、続けろというように五十嵐が手を振るのを見て、隆治は続けた。
「日本の状況をざっと眺めると、昭和32年の神武景気、翌年から始まった岩戸景気、昨年37年のオリンピック景気と好景気が連続で発生したにも関わらず、現在の日本は証券不況に入っています」
「ああ、山一證券が経営危機だと噂されているな」
「はい。こうなった原因は、日本銀行が昭和20年代から始まった経済成長の旺盛な資金需要に貸し出しでこたえたためです。その結果、今やオーバー・ローンが日本全体の大きな問題になっています。そこで日銀は通貨を市中銀行に貸し出す以外の解決策を生み出すことで、金融政策の自由度を上げ、都市銀行の自主性を育てようとしました」
「新金融調節方式だな」
と五十嵐が返す。隆治は頷いて続けた。
「ええ。日銀は新金融調節方式を実行し金融政策を身軽にしようとしました。ですが、昨年の好景気後の金融引き締め局面で、日銀は撤廃したばかりの窓口規制を復活せざるを得なくなり、金融政策の自由度を上げるどころの話ではなくなりました」
「確かに今の金融政策は都銀にとってみりゃ、自主的にやっていいんだか、日銀の言いなりになった方がいいんだか、方針がブレブレで困ったことだとは思うぜ。だが、それが隆ちゃんと何の関係があるんだ?」
と尋ねた五十嵐に隆治が答えた。
「僕は父の関係で、ある都銀の重役と顔見知りです。その方がおっしゃるには、これからの金融業界は国内外を問わない世界的な金融競争にさらされる可能性が高い。その時に必要なのは情報だと。たしかに金融業界は他業界に比べても閉鎖的です。これまでは国の顔色だけ見ていれば良かったのでしょうが、今後は他行の動きや世界の動きにも目を配る必要があります」
 出されたお茶を一口飲むと、隆治は続けた。
「とはいえ、銀行のような特殊な業界が必要な情報は狭くて深い内容が多いです。だから僕は銀行のニーズに合わせた業界誌を立ち上げようと思っているのです」
 五十嵐はほうっと感心した。これまでも隆治の知識欲と情報整理能力に感心したことはあったが、まさかここまで考えているとは思っていなかった。
 そしてテキヤの父親の人脈もしたたかに活用している隆治の姿にも驚いた。てっきり父親の顔色ばかり伺っているひ弱な青年だと思っていたのに……。
 隆治の真の姿を見出したような気がして、五十嵐はこれ以上編集部に隆治を引き止める必要がないと感じた。
「なるほど、よくわかった。業界誌の立ち上げは苦労が多いだろう。困ったときは声をかけてくれ」
 隆治が目を潤ませて再び頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「それにしても奥さんにはもう話をしているのか?」
「いえ、直接会ったときに話そうかと……」
「そうか。もしも俺がお前と同じ話を家内にしたら、『あんた! 何ひとりで勝手に決めてんのよ!』って、フライパンでひっぱたかれるぜ。奥さんの機嫌を損ねないように隆ちゃんうまく話を持っていけよ」
 がはっは!と豪快に笑う五十嵐を見て、隆治も思わずにっこりと笑った。

#小説  #群像劇   #神経症  #1964年

 

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