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『Egg〈神経症一族の物語〉』第一章

    生まれてこなければいいのに。
    生まれてこなければいいのに。

 私の中に巣食うもの。
 煙草を吸うと苦しがるのに、
 どうしてお前は死なないの。


 第一章 

「サーブはサウスポーの宮本!」
「宮本打った!」
「ソビエト懸命に返した! おーっとホイッスル!」 
「オーバーネット! 日本勝った! 日本勝った! 日本勝ちました! ソビエト呆然。日本、金メダルを獲得しました!」
 1964年10月23日。戦後日本の復活を証明するような、東京オリンピックでの日本女子バレーボールチームの大活躍に全国が熱狂する中、私こと高藤恵美は陣痛の痛みにひたすら耐えていた。

「ヒッヒッフー。そうよ、高藤さん上手上手」
 陣痛が始まってからすでに25時間。助産婦さんが腰をさすって励ましてくれるものの、私はへとへとだった。妊娠中も煙草を吸ったせいで羊膜が頑丈で破水しない、と医師に言われた。それなのに陣痛は遠慮会釈もなく一定の間隔をあけて律儀に私を襲ってきた。
 私のおなかに巣食った化け物め。巨大な水袋を被ったまま、こんなちっぽけな穴から出てこようなんて、ずうずうしいにもほどがある。私は思わず叫んだ。
「もういやあ! 帝王切開して!!」
 助産婦さんが困ったように医師を見る。医師も困ったような顔をした。「高藤さん、お義父様に帝王切開は反対されているのですよね。…大丈夫ですか?」
 そわそわした二人を見て、私はまたイラついた。
「このままじゃ、死んじゃう! 隆治に伝えて!!」
 夫の隆治は背が高く浅黒な肌、チリチリとした天然パーマが目立つ男だ。子供のころは、アメリカ人にはらまされた子だと誤解されたそうだ。今も外人風の容貌はそのままで、ピタッとしたジーンズとラフに着こなしたTシャツがよく似合う、ハンサムな男になっていた。

「え…帝王切開、ですか?」
 隆治は医師の言葉を聞いて動揺した。
「奥様の陣痛はほぼ1日続いています。体力がなくなる前に、決断をしないと…」
 隆治は頭を抱えた。言い出したら聞かない頑固おやじが待合室で待っている。相談しないという選択肢以外にないのに…。しかし、丸一日分娩室から聞こえてくる恵美のうめき声で、隆治もどうかなってしまいそうだった。「わかりました。少し時間をください」
 隆治はうなだれたまま、待合室に向かった。
「帝王切開をするだと!!」
 待合室の全員がはっとして振り返るほどの大きな声で、誉は息子を怒鳴りつけた。
 誉は戦後、テキヤの親分として中越地方をまとめあげた実力者だ。昭和の高度成長に歩みを合わせ組も巨大化。関東最大の海道組の親分と義兄弟の契りを交わすまでとなっていた。
 一部の隙もない大島紬の和装に身を包んだ誉は、ジーンズに長袖シャツ姿の隆治に吠えた。

「ならん! 麻酔を使うことになるんだぞ。孫に何かあったらどうするつもりだ!」
「でも、恵美が危ないって…」
「ふざけるな!!」
 鷹のような鋭い眼光で大声を張り上げた誉を、まあまあといなしたのは妻のいちだ。
「出産は命がけなのよ。お医者様もそう判断されているのならねえ」
「お前も帝王切開などしておらんだろが! 普通に産むのが一番に決まっとるわ!!」
 激昂している誉たちの元に、看護婦がすっ飛んできた。
「高藤さん、奥様が破水されました」
「えっ!」
「分娩室の前に来てください!」
 隆治はほっと胸をなでおろすと、両親に向き直った。
「もう帝王切開はないと思います」
「うむ」
 誉は満足げにソファに身を沈めた。周囲の緊張も一気にほぐれる。隆治は急いで分娩室に向かった。


この小説は「小説家になろう」ミッドナイトノベルズ(大人向け)でも連載しています。


#小説 #群像劇   #神経症  #Egg・神経症一族の物語


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