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『Egg〈神経症一族の物語〉』第2部 第二十二章

 高藤恵美は台所で洗い物を終えて、うーんと伸びをした。
 「よし、洗濯と掃除と洗い物はこれで終わりっと」
 夏休みになって子供たちの学校がなくなり、いつもと違う日常がやってきた。私はカレンダーにぎっしりと描かれた子供たちの予定を確認する。
 「哲治は塾の夏期講習だから夜まで帰ってこないでしょ……。そういえば、今朝は随分早起きして出かけていったけど、塾が楽しくなってきたのかしら? やる気が出てきてよかったわ……」
 カレンダーを見ながら、私は愛用のマイルドセブンに火をつけて、苦みのある煙を胸いっぱいに吸い込んだ。
 「由美の方は……しまった、バレエレッスンは午前中で終わりだったわね。お昼ごはんを用意しなくっちゃ」
 冷蔵庫をのぞいたが、めぼしいものが見当たらない。どうやら買い物に行かないとまずそうだ。うーん、今日は焼きそばかな……。
 
 あれこれ考えながら、鏡台の前に座り、後ろに結んでいた髪をほどくと、私は腰まで伸びたストレートの黒髪を丹念にブラッシングし始めた。
 さらさらと指が通るキューティクルの整った艶やかな髪を、私は心から愛している。馬毛のブラシで何度も梳かすと、輝きが増すのもとてもきれい。
 子供の頃から髪は私の自慢だった。いつも小言ばかりのお母さんも、さらさらと流れる私の髪の毛を見ると、「本当にきれいな髪の毛ねえ」と褒めてくれたし、無口で農作業ばかりしているお父さんも、お正月には私の髪によく似合う素敵な髪飾りを毎年プレゼントしてくれた。
 私に告白してきた男子の中には、
 「君の髪が美しすぎる」
 というタイトルのとてつもなく長い詩を書いた人もいったっけ。
 そんなことを懐かしく思い出しながら、ひとしきり髪の毛をいじり終えると、私はおもむろに真新しい白いコンパクトを取り出した。
 
 このファンデーションは今夏の新作。表側に青から緑への波のグラデーションがセンス良くデザインされた、「資生堂アクエアビューティーケイク」だ。
 「資生堂ビューティーケイクシリーズ」は私が美大生になった頃に発売された夏化粧のファンデーションだ。汗ばむ夏でも化粧崩れを防ぐファンデで、スポンジに水を含ませて仕上げる方法が、暑い夏に実に気持ちがいい。
 それに毎年パッケージデザインが変わると放映される、おしゃれなコマーシャルが私の心をくすぐった。
 
 特に71年のコマーシャルはダントツで素晴らしかった。
 外国人の美女がアップで撮影され、強いライティングで照らされる。手や腕の動きと表情だけで演技するモデルに合わせて、
 「煙の中に沈んでいるような町が
光の中に沈んでいるように感じる朝がある」
という印象的なナレーションが入るのだ。
 
 美しさはそれだけでアート。
 
 そんなメッセージを伝えてくれるコマーシャルは、私だけに向けられたみたいに思えて、テレビで何度も目にしては強く強く共感したものだ。
 
 そうそう、今年の夏のコマーシャルも私的に大ヒット! 矢沢永吉という男性歌手の歌声が、5人の美女の海でのバカンスをけだるく印象的に盛り上げているあのコマーシャルだ。
 街中でもよく流れているから、誰でも一度は聞いたことがあると思うんだけど、彼が歌う『時間よ止まれ』というタイトルの曲は、とにかくサビが気持ち良い! 
 美しい花もいつかは枯れてしまうけど、今この一瞬を留めておきたい、そのためのファンデーションがここにある、というメッセージがビンビンに伝わってくる歌声に、私は心底うっとりとさせられた。
 
 化粧を終え、夏用に買ったばかりの白いフレアスカートをはいた。ドレープが美しい純白のスカートは、トップスに着た青く網目の細かいサマーニットと相性抜群。まるでテレビに出てくる南国の青い海と白い砂浜が広がっているかのよう!
 頭にさざめく波の音を感じると、私も資生堂のコマーシャルに出ているモデルになった気がして、背筋がぴんと伸びてくる。
 姿見の前でくるりと一回転してポーズを取った。実家でこんな姿を見られたら、お母さんにどれだけ嫌味を言われるかわからないけど、今はうるさいことをいう人は誰もいない。隆治と結婚して東京で暮らせるようになって本当に良かった。
 
 身支度を整え、海のそよ風と波の音を感じながら、鼻歌混じりで外に出たところで、運悪く隣の奥さんにつかまった。
 「あらあら高藤さん、お買い物?」
 「おはようございます。ええ、そうなんです」
と恵美は買い物かごを持ち上げた。急いでいる風を漂わせたつもりだが、お隣さんはいつも私を逃がしてくれない。
 
 頭の中の波の音が、急速に遠のいていくのを感じた。

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