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5年前日記⑤

子どもが5歳になった。
それで5年前の記憶がわたしのまわりをうろうろしている。
せっかくなので書きとめておこうと思う。


2018年2月2日(金)

なんやかんやあって今日、帝王切開で子どもを産むことに決まった。
破水というのをして産院に入院してもう4日目だ。そろそろ外に出してやらないと赤ちゃんがいよいよ危ないということになったのだ。

昨日の時点で陣痛促進剤で引き起こされるズケズケ踏み込んでくるような陣痛にからだも心も負けきっていたわたしには、帝王切開でいこうという医師の提案はむしろありがたく響いた。正直いうとありがたいなんてもんじゃない、跳び上がってヒャッホウしたいくらいうれしかった。やった!切ってもらえる!これで陣痛とおサラバできるぜぇ!!
でも夫は深刻そうに医師の話を聞いていたし、わたしもせいいっぱい神妙な顔を作って「お願いします。早く赤ちゃんを出してやってください」と言った。
でもそれはほんとにそう。この数日間、破水してもお産が進まなくても、ずっとお腹の中で元気に過ごしてくれていた頼もしい頼もしいわたしの赤ちゃん。絶対に元気なまま出てきてもらいたかった。

ひとたびわたしがイエスというと、驚くべき早さで手術の用意が整えられ、わたしは1時間後には手術台がわりの分娩台の上に寝ていた。
そして帝王切開手術がはじまった。



帝王切開での出産をした記録は

ここにも書いた。
だから、いまは記録の外のことを記してみたい。何が起きたかではなくて、何を感じていたか。

わたしの中から取り出されたとき、赤ちゃんは泣いた。なんともいえない響きだった。
文字に起こせばホニャアアとかフンニャアとかいうことになるのだろうが、この字面が与える印象よりもずっと、それは力強さをもった音だった。こんな音で泣くんだ!大気に放たれて最初のひと息で?
看護師が両手に抱いてわたしの顔のところまで連れてきてくれたその姿を目にした時も、感じたのは頼もしさだった。その子は生きて動いていた。指か手をしゃぶっていた。からだもすごく大きくて(体重は2500グラム強で出生時としては小さいほうだった。でもわたしの目にはそう映った)、つむじがはっきり見えるくらい髪がしっかり生えていた。

赤ちゃんが生まれてほっとするのは知っていた。でもこんなに心強いとは知らなかった。赤ちゃんってもっとよるべない存在だと思っていた。わたしから出てきた赤ちゃんはなんていうか、完璧に機能していて、なにも付け足す必要がないように思えた。
理屈でいえばそんなわけない。人間の新生児は他の動物ではありえないというくらい未熟な状態で生まれてくる。移動すら自分ではできない。養育者の世話なしには命をつなげない究極の弱者だ。

でも、そんな面構えではないのだ。

この赤ちゃんは与えられるものすべてを糧に力強く育つだろう。姿を見て根拠なく確信した。わたしがいようといまいと関係なくこの子は育つ。

そう確信したときの静かで強いよろこびを、言葉にするのは難しい。でもやってみる。わたしは言語化するならばこんなことを考えていたと思う。;

この特別な子は、わたしのからだから生まれたことによって間違いなく、わたしにとってかけがえのない存在になった。
でもこの子から見ればわたしはまだ何者でもない。母という肩書きはこの子にとってなんの意味もない。たとえば明日からこの子の世話をするのがわたしでない他人だとして、この子はその他人と十全に愛着を形成するだろう。
これから、この子がわたしを必要とするのではない。わたしがこの子を必要として、世話をするのだ。


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