見出し画像

17さい、スイとのこと

 はじめて付き合った男の子の名前はスイという。スイを好きになって間もなく、向こうから付き合ってほしいと言われて、付き合いがはじまった。

 (1)好きになった相手に(2)告白されて(3)付き合う、というその後の人生でもなかなか訪れることのない事象が一挙に押し寄せたので、わたしはその日を境にまるで違う生き物になった。17歳、クラスメイトのスイと手に手を取り、恋愛の世界に足を踏み入れた。頭上にファンファーレが鳴り響くのが聞こえるようだった。

 手をつないで歩くこともキスも抱き合うことも、それまで妄想していた以上に素晴らしいものだとわかり、言葉でしか知らなかった幸福という概念が色づいて熱を帯び、その実在をわたしに知らしめた。そうか。あるのか。こんなことが。わたしが幸せになることが。
 あとで知ることだが、恋愛にまつわるはじめてのあれこれがひとつひとつ身を震わせるほどに幸せな体験であったというのは、かなり幸運なケースに入るのではないだろうか。レアケースとまではいかないまでも、とてもいいほうであるのは確かだ。
 しかもわたしはスイと付き合う直前までずっとあせっていた。高校2年。17歳。

 地域の17歳をかき集めた教室には当然、様々な17歳の女の子がいるのだけれど、わたしにはたったの3種類に見えていた。
 まず、お化粧が上手で髪の巻き方も知っていて学校指定の制服という限られた枠の中での(またはほどよく逸脱した)着飾りかたを心得た女の子たちがいる。授業が終わると学内の男の子や、迎えに来た他校の制服の男の子と手をつないで去っていく女の子たちだ。ときには校門横につけられた車の助手席にするりと滑りこむこともある。
 もう一方に、化粧はおろか身体の毛にすら一度も手をつけたことがなく、ぼさぼさのまゆげ、腕の体毛がうっすらと風に揺れるままにしている女の子たちがいる。
 わたしはその中間にいた。つまり、化粧をするけれども上手くはなく、着飾るけれど垢抜けてはいない。わたしのような子はいつ・どこのクラスでもいちばん多いはずだ。つるんで遊ぶのは同じくらい垢抜けていない子たちだった。

 前期の終わりにもなるとよく遊んでいたその子たちとのおしゃべりの中にも、彼氏ができた、○○と付き合いだしたんだよね、といった話が出てくるようになった。きゃあきゃあ、すごい、よかったじゃん、いいなあもう。はやしたてながら、あせる気持ちがまったくなかったと言ったら嘘になるけれど、そのときにはまだそこまで大きなあせりはなかった。

 わたしをつらぬいたのは、次のインパクト。化粧気のまったくない、ふわふわとした体毛に腕を包まれたクラスメイトに付き合う相手ができはじめたのだ。彼女たちはぴっちりと上までしめていたシャツのボタンをいくつか外して、ネックレスをのぞかせるようになった。夏服からのびた腕には相変わらず体毛がふわふわと光っているのに、はにかんで恋人の話をする姿はかわいかった。すごく。わたしは突き落とされたようなショックをおぼえた。

 もしかしたら。もしかしたらわたしには、誰かと結ばれる日なんて一生来ないのかもしれない。ずっとひとりなのかもしれない。中学のころから好きだった男の子には彼女ができていた。好きになっては、好きになられることもなく、死ぬまでこのくり返しなのかもしれない。スイを好きになりはしたけれど、その好きにも絶望はまとわりついていた。スイは同じくクラスメイトでわたしがいちばん仲良くしていた女の子のことが好きなんだと思っていたから。

 ところがスイはわたしの方を向いていた。わたしが見ていた人は、わたしのことを見ていた。はじめて人間と目が合ったあやかしのように、わたしは驚き、畏れすら感じ、夢のはずだと疑った。どうやらまっすぐ喜んでいいらしいと安心して喜べたのは数日も後からだった。そういう経緯があって付き合ったものだから、スイを神や天使のように思ったとしてもまったくおかしくないと思う。

 誰かの恋人になるのがはじめてなのはスイも同じで、わたしたちは恋人たちがしそうなことをひとつひとつ着実に、かみしめながら、かつスピーディにこなしていった。放課後にパフェを食べにいって、手をつないでみて。私服ではじめて会う休日のデート。映画館でのキス。というふうに。セックスするようになるのに1ヶ月半くらいしかかからなかった。

 しかしその1ヶ月半の間にあまりにもはじめてのことを多く体験しすぎたためにわたしたちの時空は歪んでいた。就学前の子どもが感じるように1日が長く、1週間は途方もなく、1ヶ月は永遠みたいだった。スイとはじめて寝て迎えた朝には、この一連のあれこれが始まる前とこの朝とで自分が同じ年齢であることが信じられなかった。鏡を見たらやっぱり、違う女が映っているように見えた。

 同じクラスの、付き合っている相手がいる子たちはみんな、こういうことをもう経験していたのだなと思った。よくみんな気が狂わないものだ。わたしは自分がちょっと狂ってしまったように思えたけれど、みんなと同じようにそれまで通り学校に通って日々を過ごした。誰もわたしを狂人とは思わなかったみたいだし、同じ教室でスイも少し浮かれてはいても狂っているようには見えなかった。なるほど、とわたしは思った。

 ああ、なんて知らないことが多かったのだろうと思うと同時に、もう世の中のこと、人生のことがずいぶんわかったように思えた。とくに愛にまつわることはもう全部。わたしの母親や父親のように互いを非難して小馬鹿にしながら一緒にいたり、学校の教師たちの何人かのように配偶者を貶める軽口を平気で垂れ流す年長のひとびとは、みんなこれを知らないまま来てしまったんだと思った。だから親や教師がわけ知り顔で授けてくる助言をわたしは鼻で笑うようになっていた。あの人たち本当は何もわかっていないのにね。何もわからないまま結婚して、そのまま何もわからずに来ちゃった、愚かで可哀想な、愛を知らない人たち。

 でももちろん、わたしにもわかっていなかったのだ。スイとの別れはたったの5ヶ月でやってきた。時間の流れがおかしくなっていたから永遠を5回過ごしたように感じていたとはいえ、5ヶ月。

 互いに夢中になっているときにはほかのどの恋人同士よりも特別な関係を結んでいると思っていた。その相手と別れたのはずいぶんありきたりな理由によってだった。スイは好きな人がいて、わたしよりも好きなんだと言った。それが決め手だったけれど、言わないだけでわたしにももう別に関係を結んだ人がいた。こういう別れがいったい1日に何件起きているんだろう? わたしたちはどこにでもごろごろいる愚かで可哀想で愛を知らない若い男女だった。

 別れ話はそのように、5分もあれば用件が済んでしまうようなものだった。「好きな人ができた」「そう、わたしもスイのことそれほど好きじゃなくなったな」「それじゃあさようなら」「お達者で」というふうに。それなのに、夜の公園で待ち合わせて話をはじめてからお互いの帰途につくまでには、4時間が経過していた。スイから話があるから会えないかとメールを受け取った日はバイトが入っていたから、ファミレスでディナータイムのシフトを終えて待ち合わせたのは深夜に近い時間だった。解散したときには空が明るくなりはじめていた。ふたりとも抑揚のない声でよく話した。

 お互いにのぼせあがっていたときには気持ちが通じ合っているように思えていた。スイもそう言っていた。でもその夜スイが話したようなことをスイが考えていたなんて想像もしなかった。そこまで深く考えていたのだなと驚いた部分もあれば、浅はかさに失望してしまうところもあった。要は何も知らなかった、片割れだとまで感じていたひとのことを。ほかの人間関係と同じように、わたしとスイは自分の見せたい部分だけを表面にして付き合っていた。スイというのはわたしの知らない男だったのだ。最初から、この別れ話まで。
 わたしと他者がいかなる関係を結ぼうとも、他人と他人である――この気付き、今日のわたしには希望でもあるのだが、18歳になったばかりのわたしには絶望をもたらすだけだった。少なくとも当面のあいだは。

 長い会談のあと、スイとわたしは公園に停めていた自転車でそれぞれ右と左に走り去った。文字通り、二人の道は別れた。

 それできれいさっぱり終わって二度と会わずに済めばいいのだが(若いわたしは潔癖にそう思った)、通う学校が同じなのでそうはいかない。4月のクラス替えでさいわいもう別々の組になっていたけれど、視界には入るし、通う塾も同じだし、われわれが別れたことは周りもすぐに知るところとなったから、周囲の視線も気になった。

 ほどなくしてスイは高校内の、わたしが当時かなり仲良くしていた友人と付き合いはじめた。そのことを友人とスイの双方から知らされた。二人連れ立って知らせにきたわけではないが、どちらともそわそわと申し訳なさそうにした。その頃にはバイト先の歳上男との関係に燃えていたわたしには、スイがだれと付き合おうとどうでもよかった。仲の良い女友達が元彼と付き合おうと、それもやっぱりどうでもよかった。だからこそよけいに二人のこちらをうかがう態度が鼻についた。二人とも義は通しているのに何を後ろめたく思う必要があるのだろう。きっとかれらは「彼女を捨ててその親友と付き合っている俺」「親友を裏切ってまで男を選んだわたし」、みたいな図式に酔っているだけなのだと思った。共通の友人のなかには、その図式を鵜呑みにして私を憐んでくる子もいた。憐まれるのも、二人の恋愛の燃料に使われるのもいやだったから、なんとも思っていない証明のようにスイの彼女となったその友人とは変わらず、過剰なまでに変わらず付き合い続けた。もちろん友人を好きだったからでもある。でも、もう、そういう凝縮された人間関係がわずらわしくて、早く学校を卒業してしまいたかった。そこにはもうわたしの心を置く場所はなかった。

 振り切って、過去にして、先に進みたい。先がどこであれ。その一心だった。

----

つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?