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●2021年8月の日記 【中旬】

8月11日(水)

昨日までに、この夏たのしみにしていた友人との約束を無事、かなえることができたから、わたしの夏休みは終わった。という感じ。心が充たされた。でも同時にぬけがらになってしまったような、その両方のきもちがわたしの中に強くあり、突っ伏していることしかできなかった今日だった。かろうじて、ベランダのトマトには水をやった。黄色い花がいくつか増えていたようだと、そのときの残像を振り返っていま思う。

8月12日(木)

昼ごはん、夫と子どもとモスバーガー。わたしはシャワーを浴びたばかりの濡れ髪で、先にモスに行ったふたりを追いかけた。濡れ髪で外出するの信じられない、ダサいよって母は言った、その昔。でもわたしドライヤーしてるひまないんだ、3さいの子がおかあさんすぐきてねって言うんだから仕方がないよ。と母にたいする言い訳みたいにして思う。かつて母の示したダサさの尺度、どうでもよすぎる。はずなのに、わたしの中にはしっかり母が住みついている。いまの母ではなく40代のちょっと尖った母が。彼女は言う、わたしの中で言う、濡れ髪はダサい、デブは公害、電車で化粧するのは商売女。わたしはその声をある程度内在化させてしまっている。振り切りきれないでいる。だから濡れた髪のわたしは誰とも目を合わせないよう斜め下を見て自転車を漕ぎ、自転車を停めると自分の靴を見たままモスバーガーの2階に上がり、子どもがいたから子どもの選んだ席に座ってようやく子どもの目を見た。さまざまなしょうもない理由で今日みたいに、どうにも世間に堂々とできないときのわたしが、唯一恐れないでいられる目。わたしをただのわたしとして映す目を、糸みたいに細めて子どもは笑う。こういうところに救われていながら、わたしもそのうち、呪いの声を発するわたしの分身をこの子の中に植えつけることになるのだろうか。そうだろうな。気をつけなかったらたくさんそうだし、細心の注意をはらってもちょっとはそうだろう。

やがてわたしたちみんなの分の注文を終えた夫がやってきて、わたしは濡れ髪であることを彼にたいしてもちょっと、恥ずかしく思った。

8月13日(金)

雨ふりのせいか盆だからなのか、やたらと空いたバス・電車を乗りついで子どもとふたり、美術館に出かけた。子どもは、展示をおとなしく鑑賞するには若すぎた。いくら展示のメインが子どものすきな絵本の原画(など)であるとはいっても。

ニャゴ

物販コーナーでの買いものを急いで済ませ(11ぴきのねこどんぶりがあれば子どものラーメン用に買いたかったのだが、なかった。残念)、ほとんどの展示を5秒以上見ることなく会場をあとにした。

美術館の下には図書館があった。美術館から出るとき通りがかった図書館のリサイクル図書コーナーに高峰秀子の文庫本があるのを見つけて、嬉しく持ち帰った。リュックに詰めながら、浮かれて「へへへ、ご本もらっちゃった」と子どもに話しかけた。

高峰秀子さんの著作だいすき
たのしみ

8月14日(土)

夫の仕事部屋にあるプリンターで子どもの写真をひたすら焼き上げていた。子どもの0さい0か月から毎月11枚ずつを選んで焼いて、アルバムにその月の子どものようすなど書き入れることにしたはずが、写真もコメントも半年以上ぶん溜まってしまっていた。50枚以上の焼きたての写真をにらんで記憶をたどりつつ、コメントを書き入れまくった。

写真データは(残したいお気に入りのものに関しては)紙に焼くことが大事だし、文字も(それが忘れたくないことであれば)紙に書きつけることが大事だ。けっきょくはそれがいちばん長く残るのだと、デジタルのデータをさんざん失いまくったわたしはやっと確信している。(デジタルデータの管理がずさんだったせいでその結論に至っただけかもしれないが。)

ほんとうは、残るという意味で一番強いのは銅像か石碑だろう。わたしだって彫刻家なら幼い子どものかたちを銅像にして遺すし、偉大な詩人なら子どもに掻き立てられる気持ちを詩にして石に彫る。でもまあそれはむずかしいしかさばるし、遺されたほうだって処分にこまるだろう。やっぱり紙におちつく。ほどよい質量。

物理的に存在するアルバムをめくって写真を見ると安心するのは、わたしがアナログ世代の人間だから、か? そうとも限らない。若き人々のあいだでもときどき間欠泉みたくチェキやカセットテープが流行ったりするし、物理的な存在に安心する人間はいつの時代も一定数いて、わたしはそのうちのひとりというだけかもしれない。

8月15日(日)

大雨の中を出かけた。子どもにアイスクリームを食べさせるために。子どもは雨合羽、わたしと夫は傘さして。傘くらいではかばいきれない雨でみんなそこそこ濡れた。濡れながらも子どもは雨じたいを楽しんでいて、水たまりのたびに律儀に長靴の両足を浸けるので、アイスクリーム屋にはなかなか辿りつかなかった。

サーティワンアイスクリームで子どもはオレンジソルベを選んだ。大人たちは冷え切ってしまってアイスを頼む気になれず、ソルベを食べる子どもをふたりで呆然とながめていた。若いってすごいなあと思いながら。8月とは思えないくらい涼しい一日だったのだ。

家に帰ってまず脱がせた子どものレギンスはひたひたに濡れていた。手のひらにのせてその重さをちょっと感じた。

8月16日(月)

いつも、夜、夫はひとりベッドルームに寝ている。わたしと子どもはふたりでフトンを敷き詰めた和室に寝ている。夫には仕事部屋もあるし、ひとりで使える寝室もある。休日の日中でも、夜間でも、ふいに部屋に入っていって扉を閉ざし、ひとりで居て何をしているのかわからない夫にどす黒い嫉妬心が湧くようになったのは、やはり子どもと暮らすようになってからだろう。わたしは家の中で確実にひとりになれる空間を持たない。そんなの元々ないって人も多いと思う。家族の人数分だけ部屋がある家なんて、とくに都市部じゃそれほど多くないだろうし。でもわたしが耐えられないのは、ひとりになれないこと自体ではなく、夫は望めばひとりになれるけどわたしはなれないってところだ。夫もわたしもひとりになんてなれないなら、それはそれでよかった。わたしがしたかったのは不自由を分かち合うこと。夜、部屋でギターを鳴らし(音量は最小であるとはいえ)、レコードをかけたり、たばこやCBDを吸う夫。わたしの嫉妬は燃える。わたしはいつも、子どもが眠る部屋の片隅に縮こまって薄暗い読書灯をたよりに本を読むか、いちばん暗くしたスマホを延々見ているしか、ひとりの時間を楽しむ方法がないのに。音楽だってヘッドホンでしか聴いていない。

…このような家族間の嫉妬には疲れてしまって、わたしは今日、子どもと眠る部屋のひと隅に書き物机を設置した。机は以前からこの部屋にあったものだが、ここ数年は衣装ケースで塞がっていた。それを解放して整えたのだ。机のそのまた隅には図書コーナーも設けた。わたしのための場所。クサクサしていた心がみるみる回復していくのがわかった。単純なものだ。

今はそのスペースに陣取ってiPadでヒソヒソとこの日記を打ち込んでいる。iPadを買ってくれたのは夫である。

8月17日(火)

今日の仕事先では、エアコンのがんがん効いた部屋でへそを出して(衣装)座っていた。電気ストーブは故障していたのか熱気をまったく届けてはくれず、わたしの腹は冷えていくいっぽうだった。エアコンの止めかたを知る者はその部屋にいなかった。

仕事のあと、冷えた腹のためにおしゃれなカフェでルイボスティーを飲んだ。おしゃれだからバニラの香りがついていた。

8月18日(水)

昼寝から同時に目覚めた子どもと目が合って、寝ころんだまま、しばらく顔だけで笑いあっていた。すぐに忘れてしまうことばかりだが、とても満ち足りているなあと、そのときは思った。

数週間前に室内に引っこめた鉢のパクチーは適温の窓辺でようやく元気を取り戻していて、ぼちぼちなんの料理に使うか考えなければならない。外葉をちょっとちぎってチーズトーストにのせるとかは時々やっていて、それだけでも一気に異国っぽくなるからすごい。パクチーはつよい。

8月19日(木)

仕事が中止になった。映画を観にいくことにした。

すごくひさしぶりに映画館で映画を観て驚いたこと、(1)音がでかい(2)予告編が長い(3)座席が快適。

音がでかいのはすぐ慣れてサイコーになった。予告編の長さは子供向けアニメ1話ぶんくらいあった。これまででいちばん長かったんじゃないか。でかいシネコンだとそんなもんなのかな。めちゃくちゃ見せられた中で「フリーガイ」が気になった。座席が快適なのは、席が間引きされているためだ。となりは必ず空席である。快適だが複雑。

NYにある移民の街、ワシントン・ハイツに暮らす人々を描いた映画。ミュージカル慣れしていないから警戒していたけれど、音楽に満ちているのが自然ですんなり入っていけた。
アメリカに暮らす移民について、Netflixドラマの「オレンジ・イズ・ニュー・ブラック」にハマっていたのもありかなり関心をもっていたので前のめりで観た。

映画の中で、いろんな国から渡ってきた人たちがそれぞれの祖国の名前を呼ぶシーンがあるんだけど、「プエルトリコ」がすごく耳に残る。プエルトルルリィーコ!みたいに発音されるのね。めちゃくちゃアガる。

ふだんiPhoneやテレビですら映像作品をほとんど観ないのに突然スクリーンで映画なんか観ちゃったもんだから断然キブンが映像づいちゃって、夜も子どもが寝付いたあとずーーっとドラマを観ていた。

数話だけのつもりが最終話までいってしまった。時計みたら朝3時。これだから映像作品はこわいんだ…。(たいへんおもしろかったです)

#まめ夫  感想メモ:
ドラマの中で、医師を目指していた高校生の女の子が、詳細は描かれないけどどうやら心折れてしまうらしいところがある。彼女が「私は医者になった彼氏と結婚すればいい。自分でなるより彼を支える人になったほうが生きやすいじゃん」「こっちはそういう現実をこれから生きていくわけだからさ」(※せりふうろ覚え)というところを見るに、医大の男子優遇問題なんかが絡んでいるのだろうと想像される。これはヤマシタトモコの『違国日記』に描かれていたのにも通じるところがあって、ウウウッ…となってしまった。『違国日記』も「まめ夫」の脚本も、現実とリンクさせて抉ってくるよなあ。なんて呑気にポテチかじりつつ感心しているわけにもいかなさがある。これからの人たちにこんな思いをさせる世の中を消極的であれ良しとしてきてしまったのが大人であるわたしたちであると思うと。良しとした記憶はないし、良しとするわけないんだけど、でも良しとする人々を良しとする人々を良しとする人〜…を良しとしてはいたんだろう、それでこんなことになっちゃってるんだろう。クソ、って思う。どうしたらいいのかって考えても、末端のわたしには、クソなことに巡り合ったとき「あれはクソだと思います」っていちいち表明することくらいしかできないのだが、それすらサボりがちなので、サボらないほうが良さそうだ。

8月20日(金)

ねむくてしかたがない。プライムビデオで明け方まで「まめ夫」を観ていたせいだ。

子どもも子どもで、夫が外遊びに誘っても返事もせず、布団の上をごろんごろん転がったり、毛布にあたまを突っ込んでいくばかりだったので、ならばと昼寝に誘ってみた。ちょっとだけ寝よ? ね。

で、起きたら18時。

外は暗いが元気になったわたしは、400グラムの豚肉に胡麻の衣をつけてひたすらに揚げはじめた。竜田揚げ。

きょうまだ一歩も外に出ていない子どもを、夫が夜のお散歩に連れ出してくれた。まあ、猛暑日だったしね。この時間のほうが良かったよね。などとうそぶきながらつけ合わせのキャベツをちぎり酢と砂糖・塩でちょっと揉んだ。酢の味がすれば喜ぶのがわれわれ夫婦である。

竜田揚げは夫にも子どもにも大好評であった。キャベツの即席酢漬けも狙い通り、夫が喜んでたくさん食べていた。酢の味がするので。


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