見出し画像

シドニー五輪4位から考えるプロとアマの融合④

シドニー行きの切符は手にしたものの、勝ちきれなかった歯痒さも残ったアジア地区予選が終わり、遂にミレニアムイヤーを迎えた。

とはいうものの、日本代表には大きな課題が二つあった。

①誰が指揮官を務めるのか?

②予選突破の原動力となったプロ選手を招集できるのか?

日本代表監督は大田垣耕造(東芝)が務めていたが、当時日本代表のアドバイザリースタッフ任されていた広岡達朗を五輪本番で監督に起用しようとしていた。広岡といえば泣く子も黙る野球界の超大物だ。早大時代から神宮のスターとして脚光を浴び、巨人でも活躍。監督としては、ヤクルトと西武を日本一に導くなど多くの実績を残してきた。しかし、「広岡ジャパン」は幻に終わった。結果、予選に引き続き大田垣が指揮を執ることとなった。

五輪を見据え、大田垣はプロ選手を選出することを見越してチーム編成を行うこととなった。前年のアジア予選に引き続きパ・リーグからは各球団1名の主力級の選手の派遣が容認されたが、セ・リーグは前年同様そうはいかなかった。プロ選手の選出については、昨今でいうフリーエージェント制度を活用した移籍に伴う人的保証制度のようなリストから選手を選出するというものだった。それに伴い,日本代表に大きな誤算が生じた。チームの中心に据える予定だった古田敦也が選出できなくなってしまったのだ。松坂ー古田の黄金バッテリーはシドニーに舞台では実現できなかった。このような事態を見越してはいたものの、古田に代わる選手のテストは難航した。

ちなみに、シドニー五輪に選出された面々は以下のとおりだ。

プロ選手では、松坂や松中はアジア予選に引き続き代表入り。中村紀洋(近鉄)らが新たに加わった。古田が選出できなかった捕手に鈴木郁洋(中日)が入った。また、阿部慎之助(中大)や野田浩輔(新日鐵君津)といった後のプロ選手も選出されていたとしても、古田の穴はあまりに大きかった。

迎えた本大会。結論から言うと、日本は4位に終わった。特にメダルを獲得した米国、キューバ、韓国には1勝もできずに大会を終えた。言わば「文句なしの4位」だった。初戦で対戦した米国とは、先発の松坂が力投し、延長戦に及ぶ熱戦となったものの、救援した杉内俊哉(三菱重工長崎)がサヨナラ本塁打を浴びてしまった。準決勝のキューバ戦と3位決定戦の韓国戦では、先発の黒木知宏(ロッテ)と松坂がそれぞれ好投したものの、打線が沈黙し、援護ができなかった。

沈黙した日本打線は、その敗因として当然のごとくやり玉に挙げられた。とはいうものの、それは十二分に予測できたものだったのではないか。例えば、古田を招集できていた場合、本大会で正捕手を務めた鈴木と比べた場合、攻撃力が高くなったかもしれない。しかしながら,使用するバットが金属から木製に変わり、特に社会人野球の選手は今までと勝手が違うことは予め分かっていたことだ。例えば、キューバのコントレラスのような超一流投手と対戦した際は、そもそも得点のチャンスも限られる。どちらかというと、プロとアマチュアの混成チームという選択をしたことによってチーム練習が不足気味だったことの方が大きいのではないか。プロ選手の合流が大会直前となったことで、戦術の浸透や細かいプレーがどうしても徹底できなかったことによって、チームの弱点となっていた部分をカバーしきれなかったという表現の方が適切かもしれない。その一方で、20年後に改めて検証すると新たな発見も見つかった。

それは、試合をする以前に既に勝つ見込みは低かったのではないか?ということだ。例えば、投手陣の二枚看板だった松坂と黒木を強豪国にぶつける作戦である。両投手とも、本大会ではプロ野球界を代表する投手たる投球を見せた。個人成績を見ても、2人で全投球回の50%を占めている。

しかしながら、日本代表の投手編成はこの2人が好投し、1試合を投げ抜く前提で投手陣を編成していた。ゲームプランが少しでも崩れてしまうと、立て直しをするのが困難だったと思われる。加えて、リリーフ陣に先発の2枚看板に匹敵するレベルの投手を置くことができなかったため、試合の流れを変えたり、確実に勝ちを拾うことに苦労した可能性は高かったと想像できる。杉内や石川雅規(青山学院大)、渡辺俊介(新日鐵君津)といった後のプロ野球の大投手が控えていたものの、当時はまだそこまでの存在にはなっていなかった。

松坂や黒木の存在はチームに大きな力となったのは事実だろう。一方で、リリーフ陣まで手が回らなかったのは、勝つための手段が限られていたことの裏返しでもある。本来ならば、高津臣吾(当時・ヤクルト)や岩瀬仁紀(当時・中日)といった面々を起用できるに越したことはなかったのだろうが、プロ選手の選出制限が、そのような理想を叶えることを許してはくれなかった。

シドニーでの敗戦は、ひとえに「チーム編成」の敗戦だったと言える。プロとアマチュアが混成されたチームが悪いのではなく、チームを編成するまでの過程が最大の敗因となってしまった。勿論、当時はプロ選手が五輪に出場することは当たり前ではなかった。しかしながら、プロ選手の派遣に対して一枚岩になれなかったことも含め、編成が常に後手後手になったのは事実だ。結果として、プロ選手を招集してもメダルを勝てなかったという現実が、急激な「オールプロ化」という動きに球界が変わるきっかけとなってしまった。その後、日本代表は様々な国際大会にプロとアマチュアの混成チームで臨んだものの、結果を出すことができなかった。そして、遂に「長嶋ジャパン」が誕生することになったのだった(以後のことはここでは割愛する)。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?