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【長編小説】ダウングレード #24

 真夜中の二車線道路にサラサラと水が流れ続けている。和佳はきっと近くにいるはずなのに場所の特定ができない。耀は立ち止まってぐるりと周りを見回した。そもそも水から伝わってくる情報は関係ない雑多なものが多く、それを無視はできないのでとても疲れた。何度も意識を集中させようと立ち止まり、水の揺れを起こして方向を修正しながら進んだ。
 途中で、通り過ぎた自動販売機のそばに引き返し、路上に飛び出して転がっているミネラルウォーターのペットボトルを一本拾って栓を開けた。のどが渇いていたので一口飲んだが、鉄分を含んだように不味くて無意識に蓋を閉めた。
 水のそばにいる見たくもない他人の様子は頭に飛び込んでくるのに、肝心の和佳の情報はなかなかはっきり分からない。耀はイラついて、手にしていたペットボトルを道路へ投げつけた。ペットボトルは弾んで四メートルほど先に飛んでいった。うまく使いこなせない自分の力に嫌気がした。耀は転がったペットボトルに向けて手をかざし、怒りを剣のように尖らせて放った。ペットボトルは膨張し、バシュッと音を立てて弾け飛んだ。
 耀にもこれは立派な破壊行為だと分かっていた。それでも和佳への感情が抑えられない。無意識とは言え今まで人と関わることを避けて押さえつけていた感情の反動なのか。和佳が受け入れてくれないだろうと思うと、叫び出したいほど心が乱れたが、それでも和佳が生きていてくれればそれでいいと思った。彼女が元気で笑ってくれていれば、他の事はもうどうでもいい。耀は自分の感情にどう対処して良いのか分からなかった。
 耀のスニーカーはすでに水浸しになり、歩くたびにグズグズと音が鳴った。
 後方からパシャパシャと水がはねる音がする。耀はその音の軽さからなぜか子鹿が飛び出してくるような気がして、振り返ってビルの角を見つめた。ビルの陰から飛び出して来た影は、当然子鹿ではなく人だった。遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。影は女性で、後ろを振り返りながら、ふらつきながら走っている。片手でわき腹を押さえ体を前屈みにして、足を止めた。呼吸が乱れている。遠くから伝わるパトカーのサイレンを聴きながら、耀は夢を見ているように目の前の情景を見つめた。暗い道だったが、遠くの街路灯の明かりで見えるシルエットは、見間違えようがなかった。それは和佳だった。耀は近づいて行こうとして一瞬止まった。声をかけて無視されて拒絶される場面が頭をよぎった。
「いたぞ」という男の声と同時にバシャバシャと重い足音が聞こえたと思うと、一人の男が角から飛び出し、子鹿に襲いかかるライオンのように俊敏に走り寄り、逃れようと走り出した和佳の襟元に手をかけ力をこめて引き寄せた。もう一人の男もビルの角から飛び出して、もがいて逃げようとする和佳の両腕を押さえて後ろにねじり上げた。
「離してっ! いや!」
 和佳の声が響いた。耀は見えている景色以外のすべてが闇に消失したように、思考も躊躇も恐怖もまったく浮かばず、気づくと一人の男の腹を蹴り飛ばし、もう一人の男ののど元に拳を叩きつけて、和佳をかばうように背にして男たちに向かって立っていた。拳がジンと痛んだ。和佳が驚いたように耀の後頭部を見ているのが分かる。
「なんだお前? 邪魔すんな。殺すぞっ」
 蹴られた男が向かってきた。
「うるさいっ!」
 耀が叫ぶと、足下の水がザバッと持ち上がって男の顔を直撃した。鼻や喉に水が入ったのか、男はむせながらよろめいた。
 二人の男は一瞬何か考えるような表情をしたが、すぐに目配ばせしあい、年上に見える男がのどをさすりながら耀を見据えた。
「そいつはこれから仕事だ。契約ずみの仕事に穴はあけられないだろ?」
 声を出しにくそうに男が言った。二人の男は、ワガママを通そうとする子供を小バカにするような顔をしてこちらの出方を待っている。
 耀は背中側にいる和佳の気配に意識を移した。和佳の体は小刻みに震えている。
 シニタクナイ。コワイ。
 その声はあまりに孤独な声だった。耀が走りながら聴いた声も同じように絶望的な声だったが、体が触れる距離で感じる和佳の心の声はもっと生々しい絶望だった。和佳は、今この時も耀にすがりつく事もせず、震えながら立っている。和佳は誰かが助けてくれるとは思っていないのだ。その頑なな絶望が痛々しかった。
「この子は俺が連れて帰ります」
 耀は二人の男を交互に見ながら言った。
「はあ?」
 年下の男が笑った。
「今夜一晩でいくらの金が動いてると思ってるんだ? お前が代わりに出すのかよ」
 耀が黙っていると、年上の男が真顔で和佳を見つめた。
「もう時間がない。今日の客は時間にうるさくてとびきり厄介なんだ。時間通り送り届けないと俺たちが半殺しの目に遭う」
「お前なに? その女の恋人おとこ? なわけないか。それならこんな金のためにホイホイ股開く商売させてるわけないよな。部外者は引っ込んでろよ。その女だって実際男に無理矢理されるのが好きなんだ。嫌がって見せてるだけなんだよ」
 道路に溜まった水かさは足首ほどまで来ている。若い方の男の足下の水がタプンと揺れた。
「謝れ」
 耀は自分の声がやや上空から聞こえた気がした。怒りと嫌悪で電気のような刺激が胸から眉間に上がって、行き場がなく膨張した。
「彼女に謝れっ!」
 二人の男の足下の水がザッと音を立てて揺れ、二人は足を取られてよろめき、年上の方の男は水の中に尻もちをついた。
 耀は右手の平を男たちに向けてかざした。二人の男の体の輪郭の中に、いく筋もの青い光が見えている。その筋よりはぼんやりとしているが、いくつものかたまりが見える。それは生物の教科書に載っているような人体の解剖図と一致している。胸のあたりに動いているのは心臓に違いなかった。和佳を助けるには、まずこの男たちの動きを止めなくてはならない。ペットボトルと同じだ、と耀は思った。
 二人の男の前に靄のような白いものが揺らめき、大きな人の形になって盾のように立ちはだかった。六人の白い人がバリケードのように立った。
 こんな奴らも守るのか?
「ごめん。どいて」と心の中で呟き、耀は手の平に意識を集めた。
 耀が指を動かそうとした時、耳元で大音量の声がした。イヤホンで間違って最大音量で音楽を流した時よりも更に大きく、反射で全身がビクリと跳ねた。
「動くな」と聴こえた。その声は聞き覚えがあった。冷たく激しい毅然とした声。
 耀は体が動かない。
「すみません。ちょっと道に迷ったんですけどスマホでマップ見せてもらえますか?」
 この声も聞き覚えがあると耀は思った。二人の男たちと耀との間に入って話しかけている背の高い背中が見えた。西川だった。なぜ西川がここで道を尋ねているのか分からない。耀は自分の体が動かないだけでなく、呼吸もできないのだと分かった。肩から先の両手が急速に冷えていく。息を吸おうとしてもできない。体勢をコントロールできない。そうだ、和佳を安全なところへ、和佳をまずは暖かいところへ、そう思って和佳を振り返ろうとするが、首さえも動かない。耀は膝が水に浸かっていることに気づいた。いつの間にか地面に膝をついている。上半身が前に倒れる。このまま水の中に突っ伏したら、溺死するのだろうかとぼんやりと考えた。みぞおちのあたりをグイと後ろへ引っ張られた。前髪が水に浸かったが、辛うじて顔が水に突っ込むのは避けられた。そうか。さっきの「動くな」という言葉の意味は、耀の体のすべてに対しての命令なのだと分かった。生体活動のすべてが止まったのだ。
 西川の背中の向こうにいる二人の男が「ひぃっ」と妙な声を上げた。腰からつり下げられた体勢の耀の顔の数センチ先に水が流れていて、街頭の光を反射して水面がチラチラと光っている。視界にはそれしか見えないにもかかわらず、まわりに四、五人の白い人が自分を囲んでいるのが分かった。ドレープのある白い服を着て立っている。そして一人ずつ、深々とお辞儀をしてその場から消えて行った。見放されたのか。これで終わりか。西川さんは和佳を安全なところへ送り届けてくれるだろうか。肺と脳が求めている酸素は入ってこない。水面のチラチラ揺れる光が薄くなり、ゆっくりと暗くなり、とうとう真っ暗になった。


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