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【長編小説】ダウングレード #29

 テントで目覚めた朝はとても寒かったが、空気が澄んでいて気分は良かった。簡単な朝食の後川岸で水を動かすやり方を試したが、まるで水遊びしているような気分だった。耀はこんなことをしていていいのか内心自問していた。昼過ぎには雨が降りそうになったので撤収することになった。店長は耀と西川に指示出ししてあっという間に荷物をまとめると車に乗り込んだ。店長のアパートに着くと、荷物を部屋まで運ばせた。
「明日から店開けるから、アゲちゃん手伝ってよ」
「でも俺、手伝いとかしてていいんですか? もっと修行的な何かをしてないといけないんじゃ……」
「そんなのどこでも出来るって。店手伝いながら空き時間に練習すればいいさ。どうせ忙しいのはランチタイムだけだから」
「でも役所の人も食べに来ますよね?」
「じゃあ、ランチタイムは洗い場に籠もっててもらうかな」
 そんなユルさでいいんだろうか?
「西川さんはどうするんですか?」
 店長と耀が同時に西川を見た。
「ニシちゃんが店にいると、客席が一つ埋まるから、来なくていいよ」
「……じゃあ俺は外で待機してます」
「外って、車でですか?」
「ずっと張り込みみたいにするつもりか? 大変だろ、それじゃ」
 西川は店長と耀の顔を交互に見た。
「いつもやってる事なんで、どうってことないです」
 店長が苦笑いした。
「じゃあ、そういうことにするか。悪いけど茶は出さないから。俺はここで失礼するよ。また明日、店でな」
 店長はアパートの階段を上って行った。

 耀の家の近くで車を停めると、西川は黙ったままじっとしている。どうしたのかと耀も黙ったまま西川の様子を伺ったが、ようやく意味が分かった。
「監視するならうちに泊まったらいいですよ。前もそうだったんだし」
 前も監視していた事を責めている変な言い方に聞こえたかもしれないと耀は後悔したが、西川は「じゃあ、お言葉に甘えて」と言って車を近くのコインパーキングに停めた。
 部屋に入ると、テーブルの上にデパートのロゴの入ったビニール袋に入ったラ・フランスが置きっぱなしになっていた。
「すみません。冷蔵庫に入れるのを忘れてました」
 西川は犬の耳があったらペタンと垂らしたに違いない。無表情だががっかりしているのが伝わる。
「俺こそ、西川さんをだまして、すみませんでした」
 袋から出して触ってみると、かなり柔らかくなっていた。耀は台所へ運んで洗って皮をそっと剥いた。茶色に変色しているところは丁寧に取り除いた。一口大に切って2つの皿に盛ると、フォークを添えてテーブルに置いた。
「たぶんちょっと柔らかすぎだと思うけど、美味しいからいただきましょう」
 耀は座って一口食べた。西川も横に座って不思議そうに眺めてから口に放り込んだ。
「甘い」
 西川があっという間に自分の分を平らげた。
 耀は空いた皿を抱えてこちらを見ている西川を見て笑いをこらえる。
「これはあげませんよ」
「俺が買ったのに……」
「そうだった。忘れてました。でもあげません。今度お返しします」
 西川は「お返し」という言葉を反芻しているような顔をした。
 耀は冷蔵庫の中の残りの食材を使ってスープを作った。西川は斜め横後方から耀の手元を見ている。簡単に夕食をとって、交代で風呂に入った。いつものように西川は風呂から上がると、心地良さそうに伸びをしてドライヤーをかけた。
 明日から喫茶オレンジを手伝いながら店長に水の制御を習うにしても、その後はどうなるのか。考えても無駄だと思いながらも、ふと気づくと同じところをループするような思考にはまっている。和佳のこと、仕事のこと、自分の能力のこと、すべてが芋づるのように繋がっている。
 気づくと西川がこちらを見ている。
「考えるより寝た方がいいです。安慶名くんは考えすぎ」
「そうでしょうか」
「そうです。考えて解決することは考えてもいいけど、解決しないことは考えても無駄です」
「無駄って……」
「奥原さんの事ですか?」
 西川は寝袋に足を突っ込んで首にヘッドホンをかけている。
「会いに行けるようになったら間を詰めればいいじゃないですか。それまでは体調を整えて英気を養うことに努めるべきです」
「間を詰める?」
「話しかけたら返事してくれるんでしょう?」
「返事? ええ、まあ」
「じゃあ、後はそばにいたいならそばにいる、それだけでは?」
「返事をしてくれることと、受け入れてくれることは同じじゃないですよね?」
「その差はあまり関係ないと思いますよ。だって人の考えなんて一分一秒変わり続けてるんです。相手の気持ちが今どの程度か考えるなんて、そんなの本当に無駄ですよ。そばにいたいなら、そばにいられるようにありとあらゆる策を講じればいいだけです」
 耀は思わず吹き出して笑った。笑うと身体の力が抜けて、ごろりとベッドに横になった。
「西川さんはシンプルで羨ましいです」
 西川はシンプルという言葉を考えているような顔をした。西川にあらゆる策を講じられた相手はものすごく怖いだろうが、一理あるとも思った。自分がどうしたいのか、それを自分で分かっていれば、何をして何をしないのかは自ずと決まる。
「参考にします。言われた通りもう寝ます。おやすみなさい」
 西川は返事の代わりに伸びをして肩をコクッと鳴らすと、寝袋の中に収まってヘッドホンを耳に付けた。

 翌日から喫茶オレンジに行き、バイトのように手伝いをした。市役所の人間も食べに来る可能性があるので洗い場にこもれば良いと言われていたが、実際にはランチタイムが一番忙しく、結局店長の予備のサングラスを借り、マスクをして普通に客席にプレートを運ぶことになった。
 西川はオレンジの前まではついてきたが、その後はいったいどこから見張っているのか分からない。店が終わって外に出ると西川の姿はなく、家に戻ると耀に少し遅れて戻ってきた。本当に昼間店の近くで見張りをしているのかは分からない。
 全く同じような一日が五回繰り返され、店の手伝いも要領よくこなせるようになった。水を玉にして浮かせる練習を課題にされ、客がいない時にキッチンで練習した。明日は週末だが、店長は普通に休むつもりのようだった。
 店長は水の制御を教えることに積極的というわけではない。最初に「時間稼ぎだ」と言っていたことが気になった。こんなことをしていて無駄なんじゃないか。仕事を辞めさせられるなら、次の仕事を探す段取りをするべきじゃないのか。ダウングレードさせられるなら水の制御を練習しても、そもそもこの力が使えなくなるのではないだろうか。ダウングレード前の記憶をなくしたら、自分は和佳のことを覚えているのだろうか。
 サングラスにマスク姿でランチプレートを運んでいると、溝口かなえが同世代のやせた女性と共に店に入ってきた。十三時半をすぎており、客は少なくなっている。耀はあわててキッチンへ引っ込んだが、かなえがこちらを見ているのが背中越しにも分かった。キッチンへ入ると店長を肘で小突いて、洗い場に立った。店長がメニューと水のグラスを持って、かなえたちのテーブルに行った。店長とかなえは顔見知りらしく、気安く言葉を交わしている。店長が菅原と同期入庁ということは、かなえと知り合いでも当然だ。だがさっきのかなえの様子からすると、耀が店長に預けられていることを菅原から聞いてはいないのだろう。ここは余計なことはせずに隠れていた方がいい。
 店長はキッチンに戻ってくると、かなえたちが注文したメニューを盛りつけ始めた。
 耀は洗い場の皿を洗いながら、かなえと連れの女性の会話に耳をすませたが、時折聞こえる笑い声以外には何も聞こえなかった。かなえは和佳に会いに行っているのだろうか。和佳は元気なのだろうか。また元の生活に戻っているのではないか。
 腕をトンと叩かれて顔を上げると、横で店長が蛇口を指さして立っている。水道の水を出しっぱなしで、ぼんやりしていたようだった。慌てて蛇口を捻り水を止めた。クロスを使って食器を拭いて、一つ一つ棚に戻した。プレートを片づけ終わるとコーヒーカップに移った。そのカップを両手で包むようにしてコーヒーを飲んでいた和佳の横顔が浮かんだ。鳩尾のあたりがぎゅっとして、耀は反射的に胸を押さえようとしてクロスごと手を動かした。カップはクロスからこぼれて落ち、キッチンの床に当たって見事に砕けた。耀はかがんで破片を拾おうとした。
「手で触らないのよ」
 かなえの声だった。店長に紙幣を渡しているところだった。
「そっちにホウキあるから」
 店長が小銭をかなえに渡しながら言った。
 耀はホウキを持ってきて、店長の指示でチリトリの中に破片を集めた。
「じゃあ、私先に行くわね」
「ええ、じゃあ、よろしくお願いね」
「分かってる。かなえもしっかりね」
 かなえの連れの女性は先に出て行った。
 店に残った客はかなえ一人になっていた。かなえが出て行く気配はない。耀はポリ袋に破片を移しながら、かなえの動きに意識を集中させていた。和佳のことを聞いてみるべきか。何にせよ情報が得られるかもしれない。でもまだ反省していないのかと叱責されるかも。耀はポリ袋の口を結び、それをどこに持って行くか聞こうと店長の方を振り返ったが、レジ前にいた店長の姿はなく、カウンターの向こうにかなえがまだ立っている肩が見える。
 耀は立ち上がってレジの前まで出て行った。かなえはカウンターの上に置かれた雑多な缶ケースや瓶を見つめてこちらを見ない。店長は店の奥でプレートを下げているようだが、ずいぶんゆっくりと動いている。
「あの……奥原さんは、元気にしてますか?」
 軽い感じでさりげなく尋ねることばかり考えて、耀は口に出した直後に唐突すぎたかと後悔した。けれど前置きに何を話せると言うのだろう。
 かなえは迷うように自分の足下に視線を落としたが、ちらりと耀の顔を見上げた。それからまた店の中の壁やテーブルに視線を動かす。
「奥原さんは、身体は元気よ」
 身体は、とはどういう意味だろうか。耀の疑問が伝わったのか、かなえは小さくため息をついた。
「声が出ないの。ずっと話ができない状態。簡単な言葉を紙に書いたりはできるから、意志の疎通はできてるらしいんだけど」
「何でそんな……」
「原因は分からないって。検査しても特に異常はないの。心療内科の先生は精神的なものだから、時間がたてば話せるようになるって言ってるわ」
 精神的な、とは?
「和佳ちゃんに、奥原さんに会わせてもらえませんか? 何か俺にできることがあれば……」
「それはできない。彼女が自分から安慶名くんに会うことを希望しない限り」
 それは、和佳が会いたいくないと言っているという事だろうか?
「それに、あの日のことで彼女が言葉を失ったとしたら、安慶名くんに会うこと自体が症状を悪化させる可能性がある」
 俺のせい……? 街中水浸しの中に彼女を立たせて、安心させる言葉の一つもかけてやることができなかった。あの孤独感や恐怖心から和佳が心の中に引きこもってしまったのだったら、確かに自分の責任かもしれない。
「もちろんそうでないことを祈ってるわ。でも可能性がある以上、会わせる事はまだできないのよ」
 和佳を救いたいと思ったのに、逆に彼女を追い込むことになったのか。自分が引き金になったのなら、もちろん和佳に近づくことはできないだろう。
 かなえがため息をついた。
 耀はかなえに頭を深々と下げると、キッチンの奥へ行き食器棚にもたれ掛かった。最悪だ、という言葉が脳内に繰り返し響いていた。



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