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【長編小説】ダウングレード #25

 目が覚めると明るい病室のベッドに寝ていて、ヘッドフォンをつけた西川が枕元のイスに座って窓を眺めていた。目覚めた耀に気づいた西川はナースコールのボタンを押し、スマホで文字を打ってどこかに送信した。
「気分は?」
 西川はヘッドフォンをはずして首にかけたまま、耀の顔をのぞき込んだ。
 気分は? と聞かれ自分の気分がどういったものなのか感じてみようとしたが、よく分からない。自分の体が自分のものじゃないみたいに、腕や足を動かそうとするとギシギシと軋んだ。
 耀は病室の中を見回した。そこには西川以外は誰もいない。
 呼ばれた看護士が医師を呼び、診察の後、念のためといくつかの検査をすることになった。病名は低体温症だと言われた。処置が速かったので大事はないが、内蔵や血管に損傷が隠れている可能性もあるので、念のため一週間は安静にするように言われ退院許可が下りた。医師や看護士に入院時の詳細を尋ねようとすると、いつも西川が割って入って話題を変えた。退院する時も西川が付き添って、当然のように家まで付いてきた。同居することになってたんだったろうか? 耀は記憶をたぐったがそんな約束はした覚えがない。
 和佳のことを尋ねようとすると、気配を察するのか西川は他の話を始めたり用事を見つけてその場を離れたりした。まさかあの二人の男に引き渡したのではと不安で問い詰めると、西川は「そんなことするわけない」と不本意そうな顔をした。きっと和佳はあの場から逃げたのだなと推測した。無事でいるならそれでいいのだが。
 家に戻るとベッドに入らされ、寝ていろと西川に言われた。食事はどこかに宅配の弁当を頼んでいるらしく、日に二回二人分の弁当が届いた。朝食は西川が買ってきたベーコンやソーセージを出されたが、耀は食べる気分になれなかった。
 退院して三日目になって、ようやく西川がずっと一緒にいるのは何故だろうかと思った。
「西川さん、仕事は?」
 西川は黙って返事をせずに耀の目を見返した。
「気分はどう?」
「特に何ともないです。気分がいいかと言われるとよく分かりませんが」
 西川は視線を下げて小さく頷いた。
「もう大丈夫です。はやく仕事行かないと。きっと業務がたまってる」
 耀はカレンダーを見た。
 西川は天井を見上げて、それから耀の顔に視線を戻した。
「退院した日から二週間、表向きは病欠になってるけど実際は自宅謹慎なんだ。だからまだ登庁の必要はないよ」
「自宅謹慎?」
 西川はスマホの画面を開いて何やら確認し、それから話を始めた。
 耀が上水道や近隣の商店の水に圧力を加えて動かしたせいで、大小さまざまな被害が起こった。一般家庭の熱帯魚の水槽が割れ、洗面所や台所の蛇口が壊れて水が止まらなくなった。コンビニの飲料棚が滅茶苦茶に乱れ、トイレの洗面台の蛇口からも水が噴き出した。だが一番大きな被害は、消火栓のバルブが弾け飛んで、あちこちで道路上に水が放出されたことだった。道路は川のようになり、低い場所に停めてあった車は相当数が水に浸かった。幸い今回は死傷者は出なかった。気分が悪くなって救急車で運ばれた人が十名ほどいたが、すぐに回復した。被害は車両水没と建物の床下浸水がほとんどだ。耀が原因を作ったことは、今のところ伏せられている。常識的に考えれば、人が水を動かせるというのはありえないので、耀が疑われることはないはずだ。だが市の水道局では、直後から徹夜の復旧作業が続いた。水道局側の不備を指摘されて、無関係の職員が責任追及されないように、菅原があの日以来ずっと関係各所と連携を取っているという。
 耀は頭を抱えた。自分のしたことが破壊行為に結びつくという意識はあった。しかし冷静になって考えてみると、確かにあまりに自分勝手な行為だった。
「懲戒免職ですか?」
 耀の言葉に西川は表情を動かさない。
「表向きは病欠だから、いきなり懲戒ってことはないね」
 表向きにないということは、依願退職になるということか。
 自分は暴走したのだ。仕方がない。仕事を失うと思うと、通い続けた庁舎が急に懐かしく思えた。関係のない一般市民になって、手続きのために庁舎へ行く日を想像して、気分が滅入った。自分はすべて失ったのだ。一番欲しかった和佳が今そばにいないだけでなく、持っている荷物をすべて水に捨てて川を渡ったのだ。渡りきったら、川岸には誰もいない。
「……彼女の居場所なんて、分かりませんよね?」
 西川は初めて気まずそうな表情を見せた。
「安慶名くんを奥原さんに会わせないように言われてる」
 会わせないようにということは、和佳の居場所ははっきりしているということだろうか。
「理由は?」
「……謹慎が明けたら、菅原さんが直接話すって。とにかくまずは体を休めるよう指示が出てる」
「彼女はとにかく安全なんですね?」
「そう。それは間違いないよ。安全なところにいる。助けてくれる人もいるし。かなえさんが時々様子も見ているから心配はいらない」
 耀はベッドに入って布団の中に潜り込んだ。体が重く感じ手足が冷たかった。西川はつまり自分の監視役としてここにいる。西川は、和佳が「安全なところにいる」と言った。シェルターかもしれない。かなえが手配したのなら、二カ所ある市の管轄のシェルターだ。和佳の状況からすると、自宅から遠い方を選ぶだろう。
 それから数日間寝たり起きたりを繰り返したが、耀はほとんど何もしゃべらなかった。西川が尋ねたことには頷いたり首を振ったりした。西川に早く出ていってほしいと思ったが、それを口にすることすら面倒だった。

「ラ・フランスがものすごく食べたいんですけど、西川さん頼んでもいいですか?」
 ほとんど言葉を交わさずに過ごしていた耀が話しかけたので、西川は散歩に誘われた犬のように喜々としてベッド脇に駆け寄ってきた。
「ラフ……何?」
「ラ・フランス。果物です。洋なしとも言います。スーパーとかには置いてなくて。でもデパ地下ならあるかも」
「ふーん。おいしいのか? それ」
「すごく美味しいです。俺、まだ立つと少しふらつくから、自分で買いに行けないと思うんで」
「じゃあ買ってくる。安慶名くんは家から出ないで」
 西川は財布だけつかむとすぐに家を飛び出した。西川が耀のことを心配してくれているのは痛いほど分かる。けれど監視役としてそばにいられては、このまま処分を待つしかない。あの日なぜ和佳が死のうとしていたのかは分からないが、安全なところに移っても状況が改善したとは限らない。自分の目で和佳の無事を確認したかった。西川に自分の考えを察知されないようにするのはかなり難しかった。その事を考えず、ひたすら失業した惨めな自分を想像し続けた。西川がヘッドホンを付けている時を狙って計画を練った。
 西川が駅の方向へ歩いていくのを台所の窓から確認して、耀はすばやく着替えて家を出た。遠回りだがバスを使って、記憶をたよりにシェルターへ向かった。シェルターというだけあってネットにもその場所は公開されていない。以前一度だけ溝口かなえが報告のために配った資料の中にシェルターの住所が書かれていた。番地まで合っているかは自信がなかったが、今は自分の記憶力に頼るしかない。
 その場所はどこかの会社の社員寮のような建物だった。陽光荘と書かれている。耀はその場で数分立ち尽くしていたが、意を決してドアを引いた。管理室のような部屋があり、分厚いプラスチックの仕切に、声だけ通すよう小さな穴が十個ほど開けられている。外からの見た目とは異なり、管理室の横には、いかにも頑丈そうなスチールのドアがあり、ドアノブなどはない。電子錠で管理室から開けなければ、中には入れないのだろう。
「ご用ですか?」
 すでに眉間に皺を寄せた中年の女性が、管理室の仕切の向こうに現れた。
「すみません。市役所の職員で安慶名と申しますが、ここに奥原和佳さんはいらっしゃいませんか?」
 中年の女性の眉間の皺が更に深くなった。一瞬彼女は手元に視線を落とした。
「いえ、そういう人はおられませんね」
 その言葉があまりに平静すぎて、耀は信じることができなかった。
「福祉課の溝口かなえさんが連れてきているはずなんですが」
「それでは、その溝口さんという方に直接聞かれて下さい」
「えっと、では、もう一つのシェルターでしょうか」
「シェルター? 私は存じ上げませんが」
「でも……」
 ふと背後に人の気配がして、振り返ると背の高い体格の良い女性と溝口かなえが立っていた。
「安慶名くん! どうして?」
 かなえは管理室の女性に目配せし、隣に立っている背の高い女性の顔を見た。それから少し迷ったように視線を外すと、小さく咳払いして耀の顔を見た。
「安慶名くん、ちょっと外に出てもらえる? 前田さんも一緒にいいですか?」
 かなえは建物の外に出て、敷地内の入り口横にある小さな建造物に向かって先導した。立番の警備員が常駐するようなガラスの窓がついている。その横にドアがあり、かなえがドアを開けて中に入った。入ってすぐ左がガラス窓のある受付の部屋、入って右に別のドアがある。かなえは右のドアを開けた。応接セットが設置されており、テーブルには飲みかけの緑茶が入った湯飲みがふたつ置かれている。
「安慶名くん、そこにどうぞ、座って」
 勧められた席に耀が腰掛けると、前田と呼ばれた体格の良い女性は、折りたたみイスを出してかなえの席のやや後方に陣取った。その様子を確認しながらかなえも腰を下ろした。
「急にどうしたの?」
「奥原さんと直接会って話がしたかっただけです」
「自宅にいるように指示が出ていたでしょう? 西川くんはどうしたの?」
 耀は何と返事するか迷って黙り込んだ。
 かなえがちいさくため息をついた。
「奥原さんはここにはいないわ。そして今は安慶名くんと奥原さんを会わせるわけにはいかないの」
「なぜですか?」
「……それは、スガちゃんから、菅原部長から説明があるはずよ。休み明けに面談する予定になっているはず」
「もう一カ所のシェルターなんですか? 俺一人では会えないなら、かなえさん一緒に行って頂けないですか?」
 耀は言いながらOKはもらえないと分かった。かなえの表情は固い。
「まず、シェルターは男性は入れないの。女性たちが避難している場所なのよ。今日みたいに男性が訪ねてきている声が漏れ聞こえただけで、パニック発作を起こす人もいるの。安慶名くんに悪気がないとしてもその事は分かって欲しいわ。いきなり訪ねてくるなんて二度としないでね」
「……すみませんでした」
 耀は居心地悪く立ち上がった。
「ご迷惑おかけしました。これで失礼します」
「待って。安慶名くん、ここにいてちょうだい。あなたが今日したことは、私の判断で収められることじゃない。悪いけど菅原部長に連絡させてもらうわね」
 耀が一瞬視線をドアに向けると、後ろに座っていた前田が流れるように立ち上がって近づき、耀の腕に手を添えて座るよう促した。警察関係者だろうか。耀は疲れを感じてへたり込むように座った。




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