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【長編小説】ダウングレード #21

 その部屋は主寝室らしく、セミダブルのベッドが部屋の中央に置かれている。壁にクローゼットが作り付けてあるが、中には何も入っていない。部屋と続きで洗面所とトイレがある。洗顔料や化粧水のサンプルが置かれている。ここに定住する住人はどうやらいないようだ。
 岡田から和佳に連絡が来たのは昨日の午後だった。飯を食べに連れて行くと言われ、若い男の運転する車で夕方迎えに来て、居酒屋へ入った。何か話をするために呼び出されたのだと思っていたが、岡田は和佳に定食を注文し、自分は日本酒を飲みながら刺身をつまみ、たいした話はしなかった。岡田は少し酔いがまわったところで、和佳を高校へ行かせてやれるようずっと考えているんだと言った。高校。行けないと分かると、行きたくて行きたくて、まるでそれがただ一つの楽園であるかのように感じていた。けれど今はもう高校へ行きたいのかよく分からなかった。
 居酒屋を出ると車が外で待っていて、運転している男とは別の若い男が一人後部座席に乗っていた。岡田は和佳に車に乗るよう促し、明日相手をする予約が入っていて手配は車に乗っている二人の若い男にまかせてあるから、ついて行くようにと言った。
 それから昨日のうちにこのマンションへ来た。この部屋で待つように言われ、ドアに鍵をかけられた。二人の男たちはリビングルームにいるのか、時々声や人の動く気配がした。朝食と昼食としてコンビニで買ってきたような弁当を手渡す以外は、一切この部屋に入ってこず、和佳と話もしない。けれど洗面所でうがい用のコップを落として音を立てた時に、一人の男が飛ぶように入ってきて様子を確かめた。日が暮れて、丸一日閉じこめられたことになり、和佳も変だと感じ始めた。逃げたほうがいいのではないか。
 部屋の鍵は内側からは開かない。部屋の中で唯一の窓はベランダに面している。外はもう暗い。和佳はゆっくり時間をかけて音を立てないように窓のロックをはずした。それから更にゆっくり音を立てないようにサッシを開け、そっとベランダに出た。カーテンが風に揺れ音をたてるのが怖くて窓をまたゆっくり閉めた。はだしでベランダの床をつま先で移動し、手すりから下を覗いた。十階はゆうにある高さに和佳の期待はあっさり消えた。二階程度なら逃げられるのではないかと思っていたのだ。窓の前には別の更に高いビルの壁が接近していて景色が見えないので高さが分からなかった。諦めて部屋の中へ戻ろうとした時だった。ベランダ続きの隣の部屋の窓が開く音がした。ベランダが仕切られているということは隣の住人の部屋だろうか。けれど聞こえてきた声は和佳をここへつれてきた男たちのものだった。
「たばこですか? 俺も一本くださいよ」
「自分で買えよ。あつかましいな」
「いま金なくって」
 和佳はゆっくりしゃがんで仕切に体を近づけた。今こちらを覗かれたら、ベランダに出ているのがばれてしまう。逃げようとしていると思われたら、わずかに残されている自由も奪われるかもしれない。
 スリッパをひきずるような音を立てて一人がベランダへ出てきて、ライターでたばこに火をつける音に続いて濃いたばこの匂いが漂ってきた。
「部屋の中は禁煙とか、めんどくさいですね」
「しかたねぇだろ。そういうルールだ」
 二人で何か無言のやりとりがあったのか、一人が舌打ちした。
「いただきますっ」
「十倍にして返せよ」
「兄貴せこいですよね」
「なんだと?」
 ライターで火をつける音に続き、ふうっと息を吐く音がする。しばらくの間、たばこのフィルターを吸うツという音と煙を吐き出す息の音だけが流れた。
「時間と場所は決まったんですか?」
「仮押さえでな。今夜二十四時の指定だ。早めに出るから十時くらいにはここ出るぞ」
「あの子も運が悪いっすね」
 ちっと舌打ちし、一人が手すりにもたれかかってこちらを覗く気配がした。和佳は体を固くして息を止めた。
「聴かれたらまずいだろ。バカが」
「部屋の中じゃ聞こえないっすよ。ここ防音だけはしっかりしてるじゃないですか」
「用心に越したことはない」
「両隣ともに空き部屋じゃないですか。前のビルだって背面だから窓はほとんどないし。こんなマンションだからうちの会社が使ってるんでしょ」
「……お前、かわいそうとか思うんじゃねぇぞ」
「どうして?」
「後処理も俺たちでやるんだ。そこは割り切ってやんねぇと」
「後処理って?」
「クライアントがお楽しみの後の始末ってことだよ」
「死体の処理ってことですか? どこかに埋めに行くってこと?」
 男たちは小声だったものを更に声を小さくして、ささやくように話を続けた。
「クライアントは頭イカレてる。腕やら足やら関節で切断して血を流しながら痛がる女とやるのが好みなんだと。だから終わった時はもう体は複数に分断されてるってわけだ。身元が分かる部分はその場でミンチにして下水に流す。でかい部分は切断してから山に埋めに行く。酒は飲むなよ。飯も早めに食っとけ。吐いたらお前も一緒に埋めるぞ」
「……マジっすか。そりゃきついっすね……」
 ふたりの男はしばらく無言でたばこを吸い続けた。
 和佳は体が震えるのを必死にこらえながら、両手で口をふさぎ息を殺してひたすら待った。
 しばらくするとスリッパを引きずる音がして、窓を開ける音がした。
「吸い殻そこに捨てるなよ。上がうるさいからな」
「うぃス」
 しばらくするともう一人も部屋に入り窓を閉め、サッシのロックをかける音が聞こえた。
 和佳は動こうとしたが体が固まったように動かない。前に体を傾け、片手とひざをベランダの床についた。音に注意して窓に近寄り、ゆっくりと時間をかけて少しずつサッシを開けた。体が入れるくらいまで開けると、そっと部屋の中に滑り込んだ。それからまた長い時間をかけて窓を閉めた。サッシの鍵をかけると、和佳は部屋の中を見回した。ドアは一つだけ。他に出口はない。ベッドの側面に背中を預けて膝を立てて座った。ベッドサイトテーブルの下には和佳のバッグが置かれている。和佳はバッグから携帯を取り出した。メッセージの履歴を開くと、耀とのやりとりが現れた。耀が送ってきた写真をスクロールして見た。いつか終わるなら早く終わればいいと思っていた。けれど和佳の体は震えていた。体が冷えたせいか、聞こえた話が恐ろしかったからか、分からない。和佳は画面を見つめ、耀へメッセージを書き込んだ。
 たすけて。
 送信ボタンを押すと、いつも通り吹き出しの形の中に和佳のことばが表示されている。けれど送信時間は付かない。携帯からはSIMカードが抜かれている。岡田に取り上げられた。この部屋にはWIFIはない。あってもパスワードは教えてもらえないだろう。携帯端末も取り上げられそうになったが必死で頼みこんで許してもらった。
 和佳は携帯画面を見つめた。弟が鴨居にぶらさがっていたのを見た時から、自分もいつかは同じようになるのだと思っていた。弟は死ぬ間際怖かっただろうか。助けを求めただろうか。和佳は膝を抱えた。手をそろりと伸ばして足首をさする。恐ろしい目に遭う前にいっそ死のうか。和佳は顔を上げて部屋の中を見回した。


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