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【長編小説】ダウングレード #30

 夜中に息ができなくなり、このまま死んでしまうのではと和佳は毎晩思う。寝る前に飲むようにと薬を処方されたが、最初の薬は効果がなく、二度目の薬は翌朝ぼんやりしてしまい、余計不安で飲むのをやめた。
 三井とのカウンセリングの時に絵を描くことを提案されたが、ただ色を塗りつぶすだけしかできなかった。
「何かやりたいことはある?」
 そう聞かれて頭に浮かんだのは写真を撮ることだった。
「音楽を聴いたり、本を読んだりしてもいいと思うわよ」
 三井の言葉に本は読みたいと思った。紙に「本」と書いた。
「じゃあ、図書館に行ってみる?」
 和佳はふと思い出した。そして「本」という文字の下に、「あずけてある」と書き足した。
「どこに?」
 和佳は「バイト」と書いた。
「バイト先? そこに本を預けているのね。取りに行ってみる?」
 和佳は頷いた。
「誰かついていく?」
 和佳は首を横に振った。
「一人で大丈夫? 職員が同行できるかスケジュールを見てみましょうか?」
 和佳はもう一度首を横に振った。
 大丈夫、のはずだ。店長はいつもやさしい。喫茶オレンジの店内の様子が頭に浮かんだ。砂糖とミルクを入れたコーヒーの香り。ふと不安がよぎった。聞きたくない事を聞いてしまったら? 本だけもらってすぐに戻ってくればいい。店長は何も深くは尋ねて来ない。
 三井は少し考えた後、じゃあいつ行くか決めたら教えてねと言った。
 和佳は紙に「今日」と書いた。

 三井の指示で、シェルターの職員の女性が事務室に預けてある和佳のスマホを持ってきてくれた。SIMカードは取られてしまったので実際に電話や通信はできないが、職員たちは気づいていないようだ。充電はしてある。和佳は黙ってスマホを受け取り自分のバッグに入れた。
 同行できる職員がいれば同行してほしいと三井が要望したが、今日の今日では空いている職員がちょうどいなかった。
 シェルターを出るのはここに来てから初めてだった。外出を禁止されていたわけではなかったが、特に行く当てもなかった。外からの来所者には職員たちはひどく敏感だ。出入りの業者を含め、持ち込まれる荷物や小包も、危険物や盗聴器がないか調べている様子だった。けれど入所者自身が出ていくことに関しては何の縛りも設けられていない。シェルターはあくまで弱き者を守る庇であり、入所を強制されているわけではない。入所者が晴れ間を求めてそこから出る意思を持つのなら、出入りは自由だった。
 夕食は申込みをしていたので、それまでに戻ると紙に書いて職員に渡した。今から行くと喫茶オレンジはきっとランチタイムで人が多い。少し時間をつぶして客が少なくなってからにしようと思った。
 市役所の裏に公園があり、和佳は一つだけ空いているベンチに座った。
 次の予定を嫌な気持ちで待たなくて良い。それがこんなに身体が緩むことなのだと分かった。和佳はベンチの背にもたれかかって空を見上げた。風は冷たいが、空はきれいな水色だった。雲はない。空の水色はわずかな濃淡を持ち、ゆっくりと変化していく。その美しい空を見ていて、和佳はのどが詰まるように感じた。
 美しい。美しいのに、悲しい。和佳はバッグからスマホを出して、カメラを空に向けた。カメラ越しに見た空は、肉眼より小型だったが、それでも美しい色だった。和佳はシャッターボタンを押した。濃淡はあまりはっきりと写っていなかったが、きれいだ。少なくとも、今の和佳の気持ちを表しているように思えた。指が何も考えずに、記憶した動作をなぞった。共有ボタンを押して、メッセージアプリが立ち上がった。そこには、安慶名耀と名前が出ていた。
 耀の手の甲に薄く残る傷跡に気づいたのは、耀がオレンジに来るようになってすぐの頃だった。定食のプレートを出すと必ずありがとうと言ってくれた。コーヒーを出した後、シュガーポットに手を伸ばす時、服の袖から延びた手首から甲にかけて、角度によってはテラテラと白く光るスジが見えた。弟の豊も手首から甲にかけて火傷の傷があった。豊が大人になっていたら、同じように傷跡も白く薄くなっていたのだろうかと想像した。大人になった豊。三歳の顔しか分からないので、大人の姿を想像するのは難しく、自然と耀の姿と重なった。
 公園の向かい側のベンチに六十代くらいの男性が座りタバコを吸っている。最近は屋外でも喫煙は禁止されているが、罰則があるわけではないので守らない人もいる。和佳はわずかに見える紫煙を目で追っていたが、突然幼い頃住んでいた家の中の景色が頭の中に現れた。窓、色あせたサイドボード、テレビ、ベビーサークル。豊はもうすぐ三歳になろうとしていたが、いつもベビーサークルの中に入れられていた。体は痩せて小さかったが、何にでも興味を示して、何にでも手を伸ばした。
 あの日、和佳はいつもサイドボードの上に置くように言われていたタバコの箱を、ローテーブルの上に置いたままにした。買い置きのタバコの箱がなくなっていたら近所のタバコ屋で買って補充するよう母から言いつけられていた。近所のタバコ屋だけは、子供の和佳が行ってもタバコを売ってくれた。その日、学校から戻ってランドセルを背負ったままタバコ屋へ行った。買って帰ってきて、ローテーブルにタバコを置くとトイレに行って、そのまますっかり忘れて外へ出かけた。その事を、今、思い出した。思い出して、一気に鳥肌が立った。
 和佳は吐き気と寒気を感じて、自分の胸を抱き込むように二の腕を両手で掴んだ。
 あの日だ。自分が置き忘れたタバコの箱を、豊は掴んで中身を出したのだ。豊が鴨居のフックにぶら下がっていたあの時、ベビーサークルの中にちぎれたタバコが散らばっていた。その様子が視界には入っていたが、無意識なのか和佳は思考から追い出した。
 その記憶が、今、戻った。
 和佳はベンチに座ったままうずくまるようにして体を前後に揺らした。そうすれば吐き気が収まる気がしたが、一向に収まる様子はない。ちぎれて吸えなくなったタバコが、あの男の機嫌を損ねたに違いなかった。豊の死のきっかけを作ったのは自分だった。豊ではなく、自分が死ぬべきだったのかもしれない。
 二人の男に客のところへ連れて行かれそうになった夜、死ぬのは怖いと思ったが、あれは当然の罰として用意されていたのかもしれない。自分が死ぬはずだったのだ。そこへ耀が来た。もしかしたら耀は、自分の身代わりになったのではないか。
 年輩の男に支えられて、だらりと腕を垂らした耀の、水に濡れた手首が目の前に蘇る。
 ふと、風が前髪を揺らした。

 何をしようとしていた?

 本を取りに、喫茶オレンジへ向かう途中だ。

 本を読む。何のために? なぜ本を読もうと?

 不安定な体調を改善するため、三井のカウンセリングで勧められた。そしてなぜ、自分は三井の言葉に従ったのだろう?

 和佳は、その答えを頭の中のガラクタだらけの思考の海の中に見つけた。
 私は生きたいのだ。普通に。健康に。他の、楽しそうに見えるみんなのように。
 今の状態を改善するために、本を読むのも良いと言われ、こうして本を取りに来たのだ。

 豊の死を招いておいて、自分だけ生きるのか? 母のことさえ、放置して。

 母親の「お前も豊と一緒に殺されてしまえばよかったんだ」という言葉が蘇った。
 そうか。母は豊を愛していたのだな。母は母なりの愛し方で豊を大事に思っていたし、今もそうなのだ。自分だけが分かっていなかった。
 和佳は酸素を求めて息を吸い、顔を上げて、遠くに見えるビルに目をやりそのシルエットをなぞった。
 監禁されていた時、逃げられるかベランダから下をのぞき込んだ。十階くらいの高さがあった。あの時、あのまま飛び降りれば良かったのだ。
 三井は「これからは自分の生活や人生を自分で決めていっていいのだ」と言った。
 自分で決める? 何をだろう?
 和佳は足を切られて水槽の中に放られているタコを思い出した。水槽から出ようと決めたところで、水槽の縁までたどり着いても、どこへ行けるのだろうか。少なくなった足で、水槽から出ることができたとしても、水から上がればやはり死ぬのだ。
 そうか。水槽の中にいてもいずれ食われて死ぬ。ならば、水槽から出て死んだところで同じ事だ。遅いか早いかの違いだけ。それなら、早い方がましだ。
 和佳は手の中のスマホがすでにロックされていることに気づいた。そこにあった写真の代わりに、空を見上げた。空はあまりにも広く、遠かった。何かを求めるように空の一点を見つめたが、先ほどまでわずかに変化し続けているように見えていた空の色は、目を凝らしても何の変化もなく、和佳の事など、この地球とは何の関係もないようだった。
 和佳はしばらくじっとしていたが、あることを決めてしまうと、吐き気も寒気も遠のいた。ゆっくりと立ち上がり、見つめていたビルに向かって歩き出した。



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