【短編小説】表層

 夫が週に三日も四日も朝帰りをしようと、この家をたまにまとめて洗濯をする場所であり、普段使わない荷物を置く場所だとしか考えていないとしても、それで夫が心地よく日々を過ごせるのなら、それでよいと思っている。
 夫はごくたまに家にいる時には、私を抱き寄せてキスするし、お酒を飲みながらテレビで映画を観たりもするし、以前よりずっと穏やかな表情だ。彼がおだやかに過ごせるなら、それが一番だと私は思う。例え表面的に見ると「破綻」しているように見えても。
 夫はいつも行く飲み屋で常連さんと楽しく話して、いつも二軒三軒と渡り歩いて朝になってしまうのだと言う。その間はウトウト寝ていたりもするから、それほど疲れてもいないのだと。
 高校生になる一人娘は、そんな父親を見ても、別に関係ないし、と言う。
 我が家はもともと家族全員で一緒に何かをするということがあまりない。私は家で翻訳の仕事をこなす。集中するとすべて忘れて没頭するので、締め切り前は家事などまったくできない。みなそれぞれに食べたい時に自分で用意し、自分で食べ、洗濯や掃除もそれぞれが自分の守備範囲を管理する。
 他の家庭なら、夫が朝帰りを頻繁にするようになるとどういう行動を取るのだろう。浮気を疑って問いつめるのか。
 自分がそれをしているところを全く想像できない。夫が浮気していたとしても、それはあくまで浮気だ。私との結婚を解消しようとしないということは、今の状況の維持を望んでいるということだ。ならば、私は異存はない。私にはそういうドロドロした恋愛感情はない。
 朝のコーヒーと、息抜きの読書、果物が少しとお腹がすいた時のためのスナックの常備があれば、それで私は十分幸せだ。

 ある日、夕方になってプリンターのインクが切れて印刷ができなくなった。いつもストックがあるのに、前回注文するのを忘れたようだった。電源再投入やらリセットやらを試しても、やはりインクを代えないと動かないのだと諦め、私は久しぶりに外出用のコートを着込んで出かけた。
 街はにぎやかだ。LEDのイルミネーションがあちこちで瞬き、楽しい雰囲気に満ちている。私は家電量販店でクレジットカードを使いインクを購入し、店を出た。ついでだから、少し歩いてみようかといつもコーヒー豆を買っているカフェの方角へ向かった。コーヒー豆はネットで注文できるし、注文したばかりだからまだある。文具店で新しい筆記具を見てもいいかもしれない。私は、夜の街をゆっくり歩き続けた。
 赤信号で多くの人の中に立って待っている時だった。向かいの歩道からファッションビルの入り口へ続く通りに見慣れた後頭部が二つ見えた。夫と娘だった。あっと声を出しそうになって、その声を飲み込んだ。二人と一緒に、もう一人笑いながら寄り添うように歩いている。女性だ。年は私より少し若いくらい。普通のコートを着て、普通のパンプス、ゆるいパーマヘアで、髪を耳にかけているのでピアスが見える。妙に女性的な女性だ、と思った。私とは正反対だ。
 三人は、ファッションビルの入り口に入っていく。信号が青になって、私は大急ぎで追いかけた。ファッションビルに入り、三人がエスカレーターで上階に上がるのを見ると、何となくスピードを落とし、少し離れて後をついていった。
 ビルの最上階はレストラン街になっていて、三人はその中のビアバーのような店に入っていった。夫は名前を告げているようで、どうやら予約していたらしい。私は、ぼんやりとその場に突っ立った。家に帰るか? いや、まだ何も分からないではないか。
 翻訳をする時、時には全く何のことが書かれているのか分からない部分に出くわす時もある。それでも根気強く調べれば、人が書いたものなのだから理解できないことはない。それが、人に理解してもらうことを目的として書かれたものであるならば。そして理解ができて、適切な訳語を導き出せた時の爽快感は、最高だった。私はそうした仕事をずっと続けてきたのだ。分からない曖昧なままにしておくことは、気持ちが悪い。
 私は、三人が店の奥の席に座ったのを確認すると、手前の方の二人掛けの席に滑り込んだ。少し頭の位置を動かして衝立代わりのフェイクグリーンの上から覗けば、三人の様子も見ることができる。女性が奥側に座っているので、夫と娘はこちらに背中を向けている。
 炭酸水とサラダ、ナッツを注文して、三人の様子を伺った。三人は次々に運ばれてくる料理を、談笑しながら豪快にたいらげていく。夫と女性はワインを、娘はコーラを飲んでいる。夫はこんなに饒舌だったかと驚いた。何やらずっと楽しげに話している。時折娘が合いの手を入れているようで、二人で小突きあったりする。女性は、時々目を大きく見開いたり、笑ったり、うなづいたり、表情がころころと変わる。美人ではないが、「柔和」という言葉が思い浮かんだ。
 サラダもナッツも食べ終わって、炭酸水はぬるくなった状態で三分の二ほど余っている。ご注文はと、二回もウェイターが聞きに来たが、それ以上何か頼む気分にはなれなかった。
 一時間半ほどして、三人は立ち上がり、夫が会計して、店の出口へ進んだ。夫の手は女性の背中に軽く当てられ、先に店の外に出た娘を目で追うと、女性に視線を戻してほほえんだ。三人はフロアのエレベーターの方向へ歩いていく。
 たっぷり二十分以上待ってから、私はその店を出た。外は急に冷え込んで、思わずコートの襟をかき合わせた。人の流れの中を、駅に向かって歩きながら、私は自分がたった一人になってしまったような気がしていた。それでも、まだ何も確定したわけではないと、心の中で繰り返していた。

 家に戻ると、娘が戻っていた。
「おかえりなさい」
 娘はイヤホンをつけたまま、無表情に私に言った。
「パパは?」
「ママ、何言ってるの? パパはいつも最近いつ帰ってくるか分からないじゃない。私が知るわけないでしょ?」
 すうっと自分の体温が更に下がった気がした。
「そうだったね」
 私はそう言うと、キッチンでお湯を沸かしてコーヒーを淹れる準備をした。
「夕飯は?」
 娘の表情をちらりと見る。
「適当に食べたから」
 パパと一緒だった? そう尋ねようかと一瞬思ったが、できなかった。私はコーヒーをいつもの倍の時間をかけてドリップし、カップを持ってパソコンが置いてある仕事部屋へ入った。
 その晩も夫は帰って来なかった。いつものように朝方、出勤に間に合うように戻ってきて、風呂に入り、着替えて会社へ向かった。
 それ以来、十分に幸せだと思っていた毎日に、曇り空のように陽が射さなくなった。表面的には「破綻」していても、内側は平穏だと思っていたのに、結局はその表面が内側を表していたのだ。
 長年放置している掃除の行き届いていない階段上の窓の網戸、ベランダの排水溝にたまった枯れ葉、壁についたへこみ傷。これまで気にならなかった家の中のさまざまな部分が、くたびれて、薄暗く、陰気に感じられた。自分の体調も変化した。なぜか急に動悸がしたり、階段を上ると息切れするようになったり、何もないところでつまづきそうになったり、朝起きた時に肩が凝っていたりした。
 これは精神的なダメージが私の心と体に変調をもたらしているのだと分かっていた。私は、取り残された、価値のない人間だと思うと悲しくて、虚しくて、それでもそれを認めたくないのだ。
 
 午後三時すぎ、コーヒーを淹れなおそうとキッチンへ行くと、夫が料理をしていた。
「どうしたの?」
「ちょっと気が向いてね。今日の夕飯は僕が作るよ」
「……そう。今日は家にいるんだ。それとも食べてからまた夜出かけるの?」
 夫は、手を止めて、私を見た。
「今日は出かけないよ」
 夫はそう言うと、魚の切り身に小麦粉をつけてバットに並べる作業に戻った。
「そう」
 私はその横でコーヒーを淹れ、カップを持って仕事部屋に戻った。
 あの女性は誰?
 その一言がどうしても聞けない。答えを知りたくないという気持ちと、聞いても本当の事を言うとは限らないという予測が入り交じり、それでもその質問を自分の心の中で繰り返していた。
 パソコンに向かっていると、おいしそうな匂いが漂ってきた。空腹を感じてリビングへ出て行くと、娘がダイニングテーブルにランチョンマットを敷いて皿とフォークを並べている。
「ママ、仕事終わった?」
「終わってはないけど、今日はもうこれくらいにしようかなと思って。いい匂いね。お腹すいた」
「パパが白身魚のフライとパクチーサラダとミネストローネ作ってる」
「へえ、すごいね。豪華。今日何かあったっけ?」
 娘はクスリと笑うと、ナイフを並べた。
「できたよ、さあ食べようか」
 夫が白身魚のフライが山盛りになった皿をテーブルの中央に置き、ミネストローネをスープボウルにつぎ始めた。
「何を手伝ったらいい?」
「ママは座ってていいわよ。私が手伝うから」
 娘にイスを引かれ、私はいつもの席に座った。
 娘はつがれたスープボウルを三人分、それぞれの席に置いた。夫と娘も席についた。夫は、シャンパンの瓶を持ち上げた。
「味見のために先に栓をあけちゃったんだけど、一口だけだから許して」
 夫はそう言うと、一つ目のグラスを私に渡した。二つ目のグラスにはほんの1センチほど注ぎ、娘に渡した。
「今日は特別にね」
「ありがとう。パパ」
 それから三つ目のグラスに注ぐと自分の前に置いた。
「今日はどうしたの? 何かあったんだっけ?」
「ほら言ったでしょ? ママはきっと忘れてるって」
「そうだね。ママは忙しいから仕方ないよ」
「何のこと?」
「今日は君の誕生日だよ。カレンダーくらい見なくちゃね。君は仕事の納期だけしか関心がないんだから、困ったものだね」
 誕生日? 私は今日の日付を思い出した。そうだ、私の誕生日は、今日だ。
「驚いた。すっかり忘れてた」
「じゃあ、私から先に。緊張することは先に終わらせてからゆっくり食べたいもの」
 娘はそう言って立ち上がると、自分の部屋からキーボードを持ってきた。リビングのコーヒーテーブルにキーボードを乗せると、ソファに座って姿勢を正した。
「ママの誕生日のプレゼントに、曲を演奏します」
 娘はそう言うと、ピアノの音にセットしたキーボードを静かに演奏し始めた。曲は、私が若い頃に流行った映画の主題歌に使われた曲だ。サビが印象的なメロディーで、聴いていると当時の記憶が蘇った。三分ほどの演奏が終わり、娘は立ち上がってダイニングテーブルに戻ってきた。
「ママ、誕生日おめでとう。この曲パパからリサーチして、すっごく練習したんだから。ママ、昔よく話してたでしょ? 若い頃はピアノを買ってくれる人と結婚するつもりだったって。小さい頃ピアノを習ってたけど、親の借金のせいでピアノは売られてしまったって。今うちにピアノはないけど、こんな風にキーボードでもピアノの音は出せるでしょ。ピアノはなくても、ママの人生はそう悪くはないと思わない?」
 私は、のどが詰まって、涙をこらえるために少し上を向き、笑った。
「そうね」
「じゃあ、次は僕から」
 夫は、立ち上がるとどこからか小さな包みを手にして戻ってきた。
「これ、僕からのプレゼント」
 手渡されたのは、小さな箱に入った指輪だった。石はついておらず、プラチナのようだが、変わったデザインで指にはめると指の上にいくつもの曲線が浮かんでいるように見える。
「すてき」
「だろ? 普段つけてほしいから、きらきらしてないものにしたんだ」
「ありがとう。大事にする」
 私は、もう抑えていた涙を止めることができなかった。ぼろぼろと涙のつぶが膝に落ちた。黙って泣いていると、罰がわるくて、私は何か言うことを探した。
「あなたが指輪を選んでいるところなんて想像できなかったわ。結婚指輪だって、私たち通販で適当に取り寄せたじゃない?」
「実はさ、どこで買っていいかさえよく分からなくてね。飲み屋で知り合った人の奥さんが、ピアノの先生で、パートでデパートの宝飾品売場で働いているんだ。それで、割引もしれくれるっていうからそこで買ったんだよ。もちろん選ぶのは僕が選んだよ」
「私も選ぶの手伝ったじゃない」
 娘が唇をつきだした。
「そうそう。二人で決めたんだ」
「ピアノの先生……」
「えへへ、実はさ、私がさっきの曲弾けるようになったのも、その先生に教えてもらったんだ」
「どのくらい練習したの?」
「二週間くらいかな」
「そんなに……」
「そうなんだよ。こいつも僕もずいぶんお世話になったからね。しっかりお礼もしておいた」
 お礼とは、あの夜の食事か。さらに涙がぼろぼろと落ちた。言葉が出てこなかった。私は何を疑っていたのだろう。
「さあ、冷えないうちに食べよう」
「ふたりともありがとう。いただきます」
 私たちはシャンパンと食事を時間をかけて楽しんだ。

「ママは寝た?」
「ママはお酒をグラス二杯以上飲むとすぐ眠っちゃうからね。ぐっすりだよ」
「パパ、私ちゃんとできたかな?」
「上出来だったよ」
「そう。よかった」
「これがママにとって最後の誕生日だからね。特別に素敵な日にしたかったんだ」
「ママ喜んでたね…」
「どうした? 気乗りしない顔だね。後悔してるのか?」
「してないわ。私は大学に行って就職して、仕事に集中したいの。ミキさんみたいに家族をサポートしてくれるお母さんが必要なの。この家はバラバラ。それぞれが別々に生活してる。一つの家に住んでるだけ」
「明日から薬の量を増やすから、体調が崩れるだろうけど、うまく話を合わせて、病院に行かせないようにね。最後まで気づかれないように」
「分かってる。家族のこと何も分かっていないママだったけど、最後まで幸せだったって思ってほしいもん」
「そうだね」
「パパは今からミキさんのところ行くの?」
「ここを片づけたらね」
「ねえ、パパ。私たちってもしかして頭おかしいのかしら?」
「そんなことないよ。僕たちは、どこから見ても幸せそうな家族だよ」

読んでいただきありがとうございました! (^_^)/~