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山に登らないと見えない景色がある
僕が唯一購読している月額マガジンは塩谷舞さんのマガジンなのだけど、その塩谷さんがこんなことをつぶやいていた。
私は今クライアントワークをほぼ受けておらず、直接読者の方にお金を支払ってもらうことで生きている。税金で働く公務員さんのように、社会に生かされてるなと思うので、社会に還元せねばと日々思考しつつ生きる。続けるか辞めるかの判断は全て自分の中で行えるので、私はこの働き方が気に入ってはいる
— 塩谷 舞(mai shiotani)💭 (@ciotan) April 27, 2019
面白いと思ったのは「社会に生かされている」という部分。
noteは自分の文章を読みたい人に直接売ることができるから、「自分の力だけでお金を稼ぐことができる」プラットフォームと言っていいと思う。「社会に生かされている」という考えとは一見正反対だ。
僕の捉え方も、noteのマガジン購読者はファンであり、熱狂的なファンが多い人(いわゆるインフルエンサー)はその力を借りていろいろなことをできる、というものだった。少なくともそこに「社会」の存在を感じることはなかった。
僕は、会社や特定の誰かからお金をもらっている状態がデフォルトだから、文章を書いて多くの読者からお金をもらっている塩谷さんは「自分の力で生きている人」に見える。
でも、その塩谷さんは「社会に生かされている」という。「社会に生かされている」というワードはよほど実感がないと出てこないと思う。
どうしたらこんな面白い捉え方ができるんだろう?
今の所の僕の結論は、「なってみないと見えない景色があるんだろう」というものだ。
僕は会社で働くサラリーマンで、自分の文章を発信することをメインにしているわけではない。あくまでサブとしてnoteを書いているし、もちろんそれで生きているわけでもない。
そういう状態において、たくさんのファンがいて、月額いくらのマガジンを購読してもらえている人というのは、「ひとごと」として羨ましく映る。あの人は自分の力で生きてるんだな、凄いな、と思う。
昔でいうとブロガーとか、最近だとYouTuberとか、「自由に生きている人」に憧れたことがある人は少なくないんじゃないかと思う。僕も昔、ブログで食べていくことに憧れた時期があった。我ながらいろいろなものを羨みながら育ってきた人生だ。
ちょっと気恥ずかしいけれど、いま考えていることをまとめておく。
生きていくことは山登りに似ている。
どんな山に登るのか。どうやって登るのか。駆け足で上がっていくのか、ゆっくり進んでいくのか。全部、人それぞれの自由だし、正解はないんだろう。
でも、高くまで登った人にしか見られない景色があることは間違いがなくて、それを下から羨ましがったり、ましてや別の山から「あっちの山はいいよな」なんて愚痴を言ったりしてもしょうがないんだと思う。
自分の決めた山で本当にいいのか? という問いは常に持っておきつつ、着実に登っていきたい。
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