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実は、世界は相補性でできている

相補性というコンセプトを、最近気に入っている。

相補性とは、二つの相対するコンセプトが同時に存在することで、観察対象をより解釈しやすくする、みたいなものだ。

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空が青いからオレンジのビルを美しく感じることができるし、
ビルがオレンジだから、空の青さが際立つ、みたいな。

もともとは量子力学の言葉らしく、文字は理解しても、単語としては理解が難しい。

科学らしいところからいえば光は粒子なのか?波なのか?という議論が一番身近だという。けれど、実は僕たちはこの相補性というコンセプトを日常世界のあちこちで目にしている。

例えば、戦争と平和という相対するコンセプトの話とか、それに紐づいて善と悪といった価値軸の話。そのほかにも好きと無関心の話とか、もしくは最近だと経済と環境の話とか。

僕はこの”相補性”という言葉を、世界を認識する(=世界ってどうしてこういう姿形なんだろう、と考えたりする)際に、”どちらか一つ”だけでは認識し得ずに、二つの視野を上手に使うことで世界をうまく取り扱っていくことだと定義づけている。

今日は、そんな相補性のお話をしたい。

文明は何でできているのか?

僕は、”世界は平和であるべき”みたいな話に、完全に同意することはできない。

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それは僕の性格が単純に天邪鬼だということもあるのだろうけど、平和というコンセプトは認識するにはあまりにも広すぎて、そして社会的背景によって揺らぎが大きすぎる。

僕たちの住む日本という国は、戦後75年といわれるように今日まで平和な日々を過ごしてきた。けれども、その発展の裏側に、いろんなものを当然の権利のように犠牲にしてきたことを忘れてはいけない。

平和みたいなコンセプトは、僕たちが世界を切り取るときの一つの物の見方に過ぎない。そして同時に、僕たちは”平和”に生きるために、いろんなものを犠牲にしてきたし、いろんなものをこれからも犠牲にしていくのだと思う。それは、自覚の有無に関係なく。

僕たちは人間らしく、いろんなものを失ってから、その存在の大切さに気が付くことが多い。それは、ある意味で人間の機械化と呼べるかもしれない。

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文明というものは、仕組みと有機的なものを行き来しながら今日まで更新されてきた。

文明という言葉には、科学の力もそうだし、社会の形も含んでいる。国という概念とか、その統治の方法とか。内側のお金の再分配の話も、そしてアナーキーな国際関係の中の交渉ゲームの在り方も、すべて。

つまり文明のうちの仕組みの部分は、人々が経験から導き出した、”こういう風に物事を進めれば、おおむねうまくいく”という知恵の蓄積だ。

仕組みを作ることは、期待される成果を量産するという発想につながっている。仕組みを作ることは、何を素材として投入したら、どういった過程を経て、どういった結果が生み出されるかということを期待してのことだし、仕組みづくりに投資をするということは、その結果がある一定期間望まれて生み出され続けるということに他ならない。このことが、前の章で述べた人間の機械化というコンセプトにつながっている。

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でも、それだけでは社会は回ることができない。

すべてを仕組みに落とし込んだうえで、そしてその仕組みを回していくうえで、徐々にたまっていく”有機的な何か”に人間社会はいつも悩まされてきた。

つまりは、”仕組み”だけでは処理することのできない、仕組みの外側にこぼれてしまったものたちの話だ。仕組みを作るときには”これで完璧だ”と思っても、それをいざ運用してみるといつの間にかどこかに歪がたまってくることが常である。

僕たちは仕組みを作ることで、日々の営みを少しずつ効率化していっている。しかし、その中で忘れてしまったり、犠牲になったものが積み重なって、いつしか大きな歪として仕組み自体を壊してしまうときがくる。人々はその壊れた、あるいは壊れかけた仕組みを見て、また新しい仕組みを作ろうと知恵を絞る。そういう積み重ねで、人々は挑戦と、オペレーションと、そして反省を繰り返して文明を進化させてきた。

人間の進化は、この”仕組み”とそのあとに生まれる”有機的な歪”との相補性によって成立してきた、と言えるのではないだろうか。


人類を進化させるということ

社会課題解決。現代におけるこれは、いわゆる”資本主義社会”によって生み出された、環境問題とか食糧問題とか、経済的な格差の問題といった”歪”を解決しようというムーブメントだ。

人々の関心が”仕組み”を回すということに向かず、むしろその周辺に零れ落ちたいろいろな歪に向かい、その解決を”新しい仕組み”の中に組み込もうとする努力は、人間がおのずと進化するように仕組まれた機能の一部なのかもしれない。

新しい時代が来る、ということを、旧世代の仕組みの破壊ととらえている人は少なくない。新しい価値軸、新しい価値観。すべてを塗り替えていって、全く新しい世界へ。

でも、僕は相補性というコンセプトを大切にしたいという立場から(そしてそれ以前に、)結局僕たちは旧世代の仕組みを更新することでしか、文明を進化させることはできないということに、今一度自覚的になるべきだと思っている。

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桜を美しく、そして待ち遠しく感じるのは、
桜とともにある記憶が、自分にとって楽しいものだから。
ひとは、すでにある認識を更新することでしか、世界を観察することはできない。

なぜなら、僕たちがいま目の前に認識している課題は、旧世代の仕組みから生まれてきたもので、課題の本質を理解することは、その仕組みを理解することに他ならないからである。そして、その仕組みを理解し、課題の本質を理解し、そしてその解決を内包した新しい仕組みを作るということは、いつまでも旧世代の仕組みからは逃れることができないということを示しているのではないだろうか。

ある意味で、破壊的。しかし、本質的には仕組みの更新に過ぎない。


相補性というコンセプトを理解する

正直、相補性という言葉を、言葉遊びのおもちゃとして使いすぎているかもしれないけど、そうであるならば余計に、僕はこのコンセプトに相補性という言葉を名付けたいと思っている。

ひとびとは、いろんな物事を白か黒かで判断しようとする。実際、そのほうが楽だし、”仕組み”の上では有機的、つまりグラデーションの位置に立つよりも、極端な場所に立つ”無機的”であったほうが再現性を高く持って、動くことができる。白か黒かで判断することは、ある意味では正しいことだと思う。

しかし、すべての物事を白と黒では判断できず、時に有機的に、グラデーションのポイントのどこかで認識を保留し、議論を続けなければいけないということも、私たちは理解している。すべての物事に善悪をつけることはできないということ、むしろ観察する場所によって白と黒は完全にひっくり返ることがあること。そしてそれと同時に、私たちは一度に一点の場所からしか物事を観察することができないということ。

この理解こそ、相補性という言葉がぴったりなんじゃないか。

相補性とは、白か黒か、という話ではない。そして、灰色と認識しよう、とあきらめる話ではない。物事が、どれだけ白で作られていて、どれだけ黒で作られているか、という視点で見てみよう、ただそれだけの、シンプルな視座の話に過ぎない。

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戦争と平和という対立軸にしたって、世界というコンセプトを理解するには、”すべてが平和な状態”のようにどちらか一つのコンセプトでは解釈を充足することはできない。であれば、世界は戦争と平和、両方のコンセプトが互いに補い合うことでできている、と理解したほうが穏やかでいられる。

環境と経済という対立軸も、同じ。こちらも世界というコンセプトの理解になってしまうけれど、環境に極振りすれば人間の存在を否定することになってしまう。一方で、経済指標だけを追いかけてきた今日までの仕組みでは、これからの世界は成り立たないということが分かっている。僕たちは資本主義社会という仕組みを運用する中で、その相対する要素として環境というコンセプトに、様々な歪みを集約して考えることができる、ということを学んだ。次の仕組みは、きっとこの二つのコンセプトを織り交ぜて作られていくんだろう。世界は、環境と経済の相補性の間で再び走り始めることになる。

既存事業と、新規事業も同じだ。
既存事業はこれまで成立してきた仕組みの、再現性をどのようにメンテナンスしていくか?という流れ。しかし仕組みを変化させずにいることは、時間とともに必ず変化する社会の中では歪が生まれていく。そこで、歪に立脚して仕組みをデザインするというものが新規事業。明らかに既存事業と視点が違うので考え方の方向転換を行わなければいけないが、この二つも事業というコンセプトを相補性の中で支えている。


僕たち人類の進化は、相補性を乗り越えることで行われてきた。

若い時(まだ僕は19だけど)のやんちゃで、向こう見ずで、不遜な行いを、時折思い出して恥ずかしくなるのは、その時信じていたり大切にしていた価値観に相対(あいたい)するものを見つけ、そして自分が少し進化したということの証だ。

当時の好みや欲をずっとかなえ続けてくれる世界に、自分は住みたいだろうか?とんでもない。(中略)われわれは制約を嫌うけれど、制約は自分の動機を自問させてくれ、それによってわれわれを解放してくれる。
- 父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。(ヤニス・バルファキス、ダイアモンド社、p.230-231)

そして僕は、人の内側でも、社会、つまり人の外側でも、この相補性というコンセプトの下で学び続け、新しい相補性の対の部分を探し続けることをやめてはいけないと信じている。今の仕組みに甘んじて、その中で手に入れることのできる満足に落ち着いてしまうことは、すなわちその時点での進化をあきらめてしまうことと同義である。

僕たちは相補性の中でいずれ自分のことを否定することになるということが分かっていたとしても、その探求を辞めずに、時に仕組みを進化させ、時に仕組みを壊しうるような歪に気が付き、そしてその歪を理解してさらに新しい仕組みをデザインするということを続けなくてはいけない。

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相補性。これが現時点で、人はなぜ生きるのか?ということに対することの僕の答えだ。

僕たちは生きるために、仕組みを作った。その中に、歪を発見した。そして、生きるためにはその歪の解決を内包した仕組みに更新しなければいけない。その繰り返し。

私たちは生きるために、生きている。その先に意味などないし、そして日々の繰り返しにこそ、意味を持っているのではないだろうか。


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