さなコン3一次選考通過作品へのコメントについて

先日「第3回日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」通称さなコン3の最終審査結果が発表され、一次選考通過作品に対するフィードバックコメントの公開がありました。

私の通過作品は以下のものです。

そして、私の作品へのフィードバックコメントについては、誰でも書けるような、なんら具体性のない一般論だけを一行だけで書いた、くだらないものでした。

やや一発ネタすぎるかも。このサイズならもう一つ追加の捻りが欲しかった

引用元:さなコン3一次選考通過作品フィードバックコメントシートhttps://downloads.fanbox.cc/files/post/6592054/QIOcxtTkbhoYKURhQdbMebhh.pdf

こんなものはフィードバックとして成立しておらず、意味がありません。まず、なにが「一発ネタ」に当たるのかを明示する必要があります。そして「このサイズ」がどういうサイズなのかも言及しなければなりません。「なら」がどのような意味を持っているのかもわかりません。つまり、一発ネタとしては長すぎるのか、あるいは上限に対して短すぎるのでもっと長くしたほうがいいのかが曖昧であるということです。「追加の捻り」に関してもこんなものは誰でも知ってる一般論です。読者の感想ならばかまわないと思います。しかし、審査員によるフィードバックコメントとしては、あまりにもお粗末です。このようなレベルのコメントしか書けない人は、審査員としての資質がありません。もちろん、今回の事態は基本的に運営の問題であると考えていますが。
簡単にですが、上記のコメントを参考にして、私なりにすこし書き直してみましょう。

この作品は、会話文と地の文を入れ替えるというワンアイデアで書かれており、それは、課題文の”「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。"における"どこか楽しげに声は告げた"の部分が男1の発話であったというオチに結びついています。しかし、このワンアイデアを成立させるために、地の文におけるダラダラとした会話を読むことは退屈なものでした。字数の上限が一万字なので、ここからもうひとつ展開する工夫があってもよいかもしれません。このオチだけでは一般読者に読み応えを感じさせるものにはならないと思います。もっとコンパクトにしてサクッと読めるようにするか、あるいはアイデアをさらに捻ってもっと読者が驚くような地点に連れていく、いずれかの工夫が必要となるでしょう。

どうでしょうか。
先ほどの一行コメントよりはマシなものになっていると思います。まあ、この程度のことは私が自分で書けるので、わざわざフィードバックをしてもらうべくもないのですが。審査員からもらったコメントを書き直すという行為に失礼さを感じる人もいらっしゃるかもしれませんが、あちらが失礼なことをしているので別に構わないでしょう。(無許可の翻案として著作権侵害を訴えてきてもそれはそれで構いません。あの程度のコメントが自身の著作物だとあなたが考えるのであれば。)
しかし、ここまで言葉を尽くしても、誰でも書けるようなレベルです。作品について具体的に言及しているだけでまだマシですが、ほとんど一般論です。また、このコメントは作品を矮小化しています。べつに矮小化してもよいのですが、私はそんなレベルのコメントを審査員に期待していません。

さて、この件は私が意図的に暴力的な言葉でタグを荒らし、さまざまな立場の方が言及せざるを得なくなり、小さな炎上状態にもなりました。暴力的な言葉に傷ついた人もいらっしゃるかもしれませんが、これは絶対にやるべきことだったと私は考えています。たった一人が小さな不満を漏らしただけでは、多くの人が問題意識を共有するに至りません。私が極端なことを言うことで、柔らかにでも批判できる人が増えます。まあ、クソみたいなトーンポリシングもされましたが笑。受賞作品についての言及よりもフィードバックコメントへの言及が盛り上がってしまったことは悲しいことではあるかもしれませんが、このコメントシートを出して炎上しないと思っていた運営の意識が低すぎるだけです。

この問題の要点は上記のツリーに書きました。
また、以下のツリーも重要な指摘であると思いますので、リンクを貼ります。

ここからの展開として、最も大切にすべきことは、審査員の一人であった人間六度氏の対応です。

短文コメントを書かれた人限定で、読んでコメントを書いてくれるというものです。私もお送りして、コメントを書いていただけました。全文引用します。

※他人に見られたくないかもしれないのでdmにしました。また、このコメント本文を他人に共有していただいても構いません。

最初に書いておくと、
僕は戯曲を読んだことはなく、演劇も嗜まない人間です。
なのであくまでこれを小説として読んだ場合に感じたこと、として感想を書きます。

小説は、地の文で状況説明や独白、括弧内で会話を書くことが常ですが、本作はそれが逆転しています。その意図が、申し訳ないが僕には掴めませんでした。
何か、小説の書き方そのものを脱構築しようとしたのですかね。
それとも、この物語の登場人物は機械的な存在であり、ナレーションの方にこそ人格がある、みたいな倒錯を狙ったんですかね。

前者だとすると、試みとしてはわかるのですが、読者にどういう気持ちになってほしいのかがわかりません。
後者なら、何かスゴイことをしようとしている感じはするのですが、やっぱりこれもその先にどういう読み味を見据えているのかが定かではありません。
たとえばですけど「シナリオに踊らされている人々」みたいなものがテーマだとします。小説だと「親の敷いたレールに従って生きる人」を描けば、そのテーマを暗に伝えることができます。
もしくは仮にこれが「文頭が決まってる文学賞へのアンチテーゼ」がテーマの作品だったとすると、そのテーマは読者ではなく運営とか出題者に向けられたものになるので、作品の普遍性を損なってしまいます。
今回のやり方は、表現方法が直接的すぎて、なんというか、小説的距離感が取れていない、という印象です。

ただ、
この作品には確かにスゴイところがあって、それは地の文の語りでキャラクターの書き分けができているということです。確かな強みだと思います。
この、書き分けの力を使って、”普通に話”を作るだけで、もうかなり面白いものが書けるんじゃないかと思うんですよね。
ただその場合、今回のように「なぜか怒っている人」「なぜか寛容な人」というようなカオスを提示するだけでは小説にはならないので、ちゃんと各人のバックグラウンドを考えねばなりません。

小説は、人間を書けと言われます。
そんな凡庸なことで自分のオリジナリティは測れまい、と思われるかもしれませんが、小説とはそういう縛りプレイだと思ってください。キャラを書かねばならないんです。
しかし安心してもらっていいのは、その縛りプレイの中でさえあなたの個性は死なないということです。むしろ縛りプレイに徹した方が、個性が光ると思います。

既存の書き方を脱構築する作品は、文学賞はなかなか通してくれません。が、
その分、anon pressとかが好きなタイプの作品だと思うんで、寄稿するだけしてみてもいいかもしれません。

人間六度様とのDM

とても有り難いコメントだと思いました。ただし、私は一言「嬉しいです! ありがとうございます!!」と言って素直に有難がれる人間ではないので、返答を書きました。

読んでいただきありがとうございます。そして様々な角度から考えて書いていただいて、ありがとうございます。

こうしてしっかりとしたコメントをいただけただけで十分嬉しいので、私の返答を受け取る義理はないと思います。以下は無視していただいても結構です。でもすみません、書かせてください。

これは明確に、「文頭が決まってる文学賞へのアンチテーゼ」として書いています。このコンテストに投稿された作品の読者の多くが応募者でもあると思うので、それぞれこの課題に対してどう取り組むかを考えた人が読む限りにおいて、これは多少なりとも機能すると私は思いました。
あるいは私のフォロワーの多くは演劇をしている人間なので、そうした人たちが読むと、「戯曲じゃないけどなんだか別役実の戯曲っぽい」という味わいも狙っています。(小説の書き方の脱構築という捉え方もしていただきましたが、「脱構築をするぞ」というよりは、この課題文が与えられている「不条理さ」自体を扱った不条理劇小説のような気持ちではあります。ここまで誰かに伝わると思っていません。)
この姿勢はどうかとも思いますが、小説を読むのが好きな一般読者はまったく想定していません。

「人間を書けという縛りプレイ」について、正直私はつねにここから逃れたいと思っており、書いている間に「うわキャラを書きすぎてる」と思うことすらあるのですが、いやしかし、たとえば円城塔さんの作品においても「人間み」はあるわけで、どうにか自分なりにその地点に到達したいと思っているところです。
あまり凡庸や個性というふうには考えてはいないのですが、小説として読むに堪えるのに「この世にこんな小説があるんだ」と思わせるようなものが書きたいとは思っています。私が『文字渦』を読んでそう思い、小説を書き始めたように。

長々とすみません。
anon pressの紹介もありがとうございます。検討します。
これまでの罵詈雑言を撤回するつもりは(書いた本人あるいは運営からの説明と撤回要求がない限り)ないのですが、このような機会を作ってくれる審査員の方がいるということだけでも本当に希望が持てます。

この度は本当にありがとうございました。

天乃こども

天乃こどもによる人間六度様へのDM

このあと、人間六度様より返信もいただいたのですが、そちらの掲載許可はいただいていない(聞いてもいない)ので、全文は掲載しません。少しだけ要約すると、戦うべきは文学賞ではなく不条理な世界そのものである、と言っていただけました。これは本当にそうだと思います。哲学者の永井均氏が「世界の真理」について書いているのだと言っていますが、私もそうです。私は小説を通して、「世界の真理」について書こうとしています。それこそがXのプロフィールに書いてある【演劇SFを哲学する】ということの真髄であります。その意味では、この作品がやっていることはあまりにも小さい。けれども書かなければならない作品でした。文学賞の課題文という小さな不条理への小さな抵抗を、逃してはならないと思いました。単純な言い方をすれば、いつかジンテーゼを書くためのアンチテーゼと言ってもよいでしょう。

しかし、だからといって、そんなことは分かっているから人間六度様の指摘が蛇足だと言うのではありません。
本当に素晴らしいコメントをいただいたと思っています。それは、大前提として作者がやろうとしていることに対する尊重があるからです。これは褒める貶すという次元の話ではありません。どれだけ褒めようとも、どれだけ貶そうとも、その前提にリスペクトがあるべきです。そうではない批評の営みがあってもよろしいが、それはそのような踏み躙りー躙られる関係を有難がる人だけでやればよいのです。私は絶対に有難がりません。
その上で、どのような読みの上ではこの作品が足りていないかを、ちゃんと指摘しています。とても誠実だと思いました。

また、作品の講評などにおいてありがちな、「あなたは〇〇(その賞のジャンルとは異なるもの)に向いている」というものがあります。フィードバックコメントにおいてもありましたし、演劇の講評においてもよくあります。その土俵で勝負してきたことへの尊重もなく、他のジャンルへ追い出そうとするものです。そもそも「〇〇に向いている」なんてのは作家が言うことではありません。そういうのは編集者の仕事であって、そうでなければ素人の感想であって、作家がそんなものを測れると思っていることが傲慢です。
そして、人間六度様のコメントは、それには当てはまりません。
これもやはり、あくまでやろうとしていることへの尊重はしているからです。そのうえで、こちらでは評価しづらいが、評価してもらえる場があるかもしれないと促すのは、とても誠実なことだと思います。
「○○に向いている」といったことは、つい言いたくなってしまいますし、絶対に言ってはいけないわけではありませんが、やはり、どうしてこのジャンルで挑戦しようとしてきたのか、それは絶対に考えなければなりません。
たとえば戯曲賞においても「この戯曲は映像向きだ」という選評がちらほらと書かれますが、こんなものもほとんど印象批評に過ぎません。最新の岸田國士戯曲賞でもそのようなことは書かれていましたが、他の作品にも当てはまるものであり、まったく説得力のない稚拙な選評でありました。そもそも、劇作家であるあなたがいったい映像のなにを分かっているのかという話でもあります。

繰り返し誠実という言葉を使いましたが、ほんとうにこれに尽きます。
ほんらい短文の不誠実なコメントを書かれた人に対してのケアをすべきは運営です。
明らかに、いち審査員の業務からはかけ離れています。しなくてもいいものです。それをあえてすることは、作品をつくるということに対して誠実に向き合っているからにほかならないと、私は思います。
ただ、もちろん、同じことができない審査員が不誠実であるというのではありません。ひとにはそれぞれの可処分時間があり、読む速度も書く速度もさまざまであり、これを実行できることはひとつの特権でもあります。
また、このことはほとんど顔の見えない作家同士だから成立していることでもあり、たとえば高校演劇の審査員と高校生という関係である場合、そうした個人的な対応がグルーミングに繋がる危険性も無視はできません。(実際にそうしたやりとりを禁止している地域があります。)

いずれにしても、重要なことは、審査員という権力を持った側が、"同等の立場で"反論することが不可能な作家に対して評やコメントをする場合は、いくら尊重しても尊重しすぎることはないということです。(「同等の立場」が意味することは、例えばその反論をフィードバックコメントが掲載されている記事に併記することなどはほとんど不可能であるということです。)
そして、一般論としてこのような対応が素晴らしいと言うべきものではありませんが、あくまでも個別的なものとして、人間六度氏の対応はとても誠実なものであり、コメントに関しても作家を尊重しており非常に素晴らしいものであったということです。
(念のため言及しておきますが、様と氏を書き分けているのは意図的なものです。)


そして、私は今回の件で、希望を感じました。
ひとつは、リンクを貼ったTokyoNitro氏によるポスト。
もうひとつは、審査員である人間六度氏の対応。

TokyoNitoroさんが、私以外のひとが、明確に「トーンポリシング」であると指摘してくれたのは、ほんとうに凄いことだと思っています。これが演劇界であれば、二次加害をするか、黙認するかが、ほとんどです。アクティブバイスタンダーとしてあれる人は、ほとんどいません。演劇界の人間は基本的には「勝ち馬」にしか乗りません。よほど広く炎上したものにしか何も言えないということです。指摘があったとしても、野次馬のようなものばかりです。あるいは単なるヒーローごっこです。そうではないものに出会えたことは、私にとってとても大きな意味を感じるものでした。
もちろん、小説を書いている人のあいだでは、あまり人間関係が濃密にならないということもあるでしょう。濃密な人間関係の前で立ち尽くし、黙認してしまう。それはあると思います。
しかし、本当にそれだけでしょうか。

やはり、小説を書いている人のほうが、「言葉」というものにしっかりと向き合っているように思うのです。もちろんそのようなものは人それぞれでありますが、これは、私はそのように界隈に希望を見いだせるということです。同時に「言葉」というものにしっかりと向き合っている劇作家などというものは、ほとんどいないと私は思っています。これは何故か、おそらく、演劇というのは言葉に向き合わなくても面白いものが作れてしまうからです。

……SF界のホモソーシャルな話を聞く度にうんざりします。もちろん文学賞の選評でもひどいものもあります。私が選評の素晴らしさに憧れた日本SF大賞でも、近年とてもくだらない選評がありました。SFでもある程度の影響力のある批評家の発言や行動に悲しくなることもあります。私は、濃密ではない人間関係すら、そこでは築きたくないと感じています。お金がなくて入れないがいつか入りたいと思っていたゲンロンのSF創作講座にも、入ることはないと思います。基本的にはもうなにもかもうんざりなんです。

それでも、です。

演劇界で希望を感じられることなんて、ないから。

少しでも感じた希望を、私は大切にしていきたいと思います。

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