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アリスの不思議な旅 

京都先端科学大学教授 兼 一橋ビジネススクール客員教授

名和 高司

半年ぶりに、アリス・ウォータース著『スローフード宣言—食べることは生きること』を再読した。京都から東京に高速移動する新幹線の中のエアポケットのような時空間で、スローフード論を堪能するというのも、なんとも乙な味わいがある。と同時に、いくつもの新たな発見があった。

半年前に新著を読んだときには、ファーストフード文化(というより「文明」)からスローフード文化(言い換えると「自然との共生」)へと大きく舵を切りなおすことの大切さを説く著者に、強い共感と同時に、正直、ある種の違和感を覚えた。

それは、高校時代にレーチェル・カールソンの『サイレント・スプリング』(邦訳『沈黙の春』)を原書で読んだ時に感じた衝撃と、同じ種類のアンビバレンツである。確かに、文明は我々を自然から遠ざけ、(意図していないとしても)自然を搾取する側に追い立てる。しかし、だからと言って、文明に背を向け、自然に帰ることが、本当に人間的な生き方なのか?

もしそうだとしたら、本書(そして『沈黙の春』)に感銘を受けたはずの自分は、なぜ文明生活から逃走しないのか?自分が告発者側にいると同時に、被告側にいるという、ある種の居心地の悪さを禁じ得ないのだ。

今回は、もう少し、冷静に読み解いていくことができた。本書の世界(それはそれで、とても美しいのだが)に丸ごと飲み込まることなく、自分なりの座標軸の中で、本書の主張を位置づけることに前回よりは成功したからだろう。

そして本書のテーマである食と同様、本という不思議な生命体も、ある期間「寝(aging)かせる」ことで、味わいが増すのかもしれない。

客観的に正しいことは、素直に納得できる。たとえば、題名にもなっている「We are what we eat(食べることは生きること)」。分子生物学者の福岡伸一氏は、生命は分解と合成を絶えず行っていると説く。
そのような生命の営みを、新ドリトル先生(朝日新聞の人気連載にちなんだ福岡ハカセのあだ名)は、「動的平衡」と呼ぶ。

その生命の流れを止めないために、私たちは日々食べ続ける。そして3か月後の自分は、その間に食べたものに入れ替わっている。だとすれば、何を食べるかが、生命体としての明日の自分を作り続けるうえで決定的に重要な行為となる。

何を食べるかだけでなく、いかに食べるかも大切だ。食べることを楽しむことによって心が豊かになる。最近喧伝されている「Wellbeing」は、実はそのような身近な日常の中に見つけ出すことができる。

まさに幸福の「青い鳥」は、我々の庭先にいるのである。毎日の食事で幸せを実感できるということを、本書は私たちにあらためて気づかせてくれる。

そして、それは自分たちの幸せという「エゴ」を超えて、自然を慈しみ、自然を再生させていくという「エコ」な生き方につながっていく。文明の負の遺産としての自然破壊からの脱却。
今、地球規模で問われている課題解決の糸口は、実は私たち自身の生き方を変えることにある。著者のアリス・ウォータースは「預かる責任」の大切さを説く。そして「預かる責任とは思いやること」だと教えてくれる。

「食べるという行為に意図を持って向き合うとき、自然世界と私たちの関係性が変わる」という言葉に、生き方とは関わり方であることに気づく。
一方で、心に刺さったトゲのような違和感の正体が見えてきた。大きく3つあったように思う。

一つ目は、いかにもフランス仕込みのガストロノミー(美食術)が、鼻についた点だ。決してバタ臭さはない(むしろ、そのような人工的な味付けに背を向ける本書の姿勢には好感が持てる)ものの、和に馴染んだ私たちの美意識とのずれが気になる。
10年前、和食がユネスコの無形文化遺産に登録された。フランスの美食術、スペインとイタリアの地中海料理、メキシコの伝統料理、トルコのケシケキ(麦がゆ)に継ぐ快挙である。
自然の恵みを大切にし、季節の移ろいを愛でる日本人の伝統的な食文化が、高く評価されたからだ。

著者アリス・ウォータースが経営する「シェ・パニース」は、スローフード革命の震源地であり、アメリカで最も予約が取れないレストランとして名高い。レストランが佇むバークレーは、ワインの里ナパバレーの表玄関でもあると同時に、映画『イチゴ白書』で描かれたように、学生運動やヒッピーの発祥地としても知られている。先進性、前衛性を誇る「革命」的な土地柄である。

一方、和の世界は「革命」ではなく「伝統」を重んじる。私は昨年から週末、京都で教鞭をとるようになり、京料理を楽しむ回数が増えた。中でも、洛北の奥懐・花脊(はなせ)にひっそりたたずむ美山荘での至極のひとときは忘れられない。
店の正式名前は「野草一味庵 美山荘」。土地の趣をふんだんに取り入れた“摘草料理”と、“気づかいすれどもおかまいなし”のおもてなしに、和の文化の奥深さを堪能した。
そのような優雅な時空間が、この花脊の地では120年以上守り続けられている。ここでは、スローフードは革命ではなく、伝統であり、日常そのものである。著者アリス・ウォータースは今年、来日する予定だという。ぜひ、花脊に招待してみたい。

二つ目の違和感は、食に対する異様なまでの執着だ。たしかに食は毎日欠かすことのない行事だが、キリスト教文化圏においても、「人はパンのみにて生きるにあらず」と唱えられてきたのではなかったか。
食を楽しむことも大切だが、私たちは食するために生きているわけではない。資本主義ならぬ「食本」主義的な狂信性に、思わず鼻白んでしまう。とりわけ私は食にはさほど執着がない方なので、余計にそう感じてしまうのかもしれない。

日本においても、「消費者」ではなく「生活者」という言葉が改めて注目されている。生活の原点は「衣食住」の3つだ。食はそのうちの1つに過ぎない。
私が幼少期を過ごした「食い倒れ」の街・大阪ではソウルフードが大切にされるが、京都はむしろ「着倒れ」の街として知られている。江戸では「武士は食わねど高楊枝」という「霞」を食むような生き方こそが、「粋」とされた。

先月、学士会館で『フィンランドのライフスタイル』という講演を聞く機会があった。登壇したのは、フィンランド大使館のラウラさん。フィンランド人が幸福度ランキングで5年連続世界1となっている本質を語ってくれた。

その中で興味深かったのは、多くのフィンランド人にとって、食は栄養補給の手段でしかないと語っていたことである。私もフィンランドに1週間、滞在したことがあるが、トナカイの肉やニシンのマリネなどに異国情緒を味わったものの、舌鼓を打つという体験にはついぞ巡り合わなかった。

ラウラさんによれば、フィンランド人が心から大切にしているのが「住生活」だという。決して豪華ではないものの、自分らしい時空間を楽しむことを最も重視する。そういえば、北欧家具は自然の中で生活しているような独特の住空間を演出してくれる。スウェーデンやデンマークのブランドが有名だが、フィンランドもアルテックをはじめ、北欧モダンを代表する独自ブランドを生み出している。

「日本では衣食住と言いますが、フィンランドでは『住衣食』の順番です」。フィンランド大使館でファッション・ライフスタイルを担当しているお洒落なラウラさんが語るのだから、説得力がある。食にはできるだけ手間をかけない。そういえば、北欧には冷凍食品スーパーも多い。イケア定番の冷凍ミートボールは、その好例だ。アリス・ウォータースは、さぞ目をむくことだろう。

しかし、フィンランド人が食の時間を惜しむのは、できるだけ、それ以外の生活を楽しむためだ。自宅にサウナがあるのは当たり前。体が熱くなったら、冬でも湖や雪原に頭から飛び込む。
森と湖の楽園と呼ばれるだけあって、自然と触れ合う住生活こそが、彼らの生きがいだ。スローフード文化ならぬスローライフ文化を満喫している。
自然と一体となる生活を大切にするうえで、食だけにこだわりすぎる必要はないはずだ。
本書も食を例にとって、生活に自然なリズムを取り戻すことの重要性を説いているのだと考えなおせば、納得感が増す。

三つ目の違和感は、この点とも深く関係する。なぜスピードが否定されてしまうのか。なぜスローでなければならないのか?だとすると、昨今蔓延している「タイパ」主義は、文化の退廃でしかないのだろうか?

この問いかけには、まさにラウラさんが答えてくれている。フィンランド人は普段の食に無駄な時間は使わない。なぜなら食以外の生活にたっぷり時間を使いたいからである。タイパ、すなわち時間対効果は、何に価値を置くかがカギとなる。
日常のあらゆることにのめり込んでいたのでは、時間がどれだけあっても足りない。大切なものにじっくり時間を使うためには、それ以外のことはできるだけ素早く済ませてしまう必要がある。
タイパ主義者たちは、そのようなメリハリのある時間の使い方の達人なのかもしれない。

時空が伸び縮みすることは、アインシュタインが相対性理論で明らかにした通りだ。しかしそれ以前から、人間はそれを体感してきた。
自分のからだが大きくなったり小さくなったり、時間が経つのを早く感じたり、遅く感じたりするといった奇妙な感覚に囚われたことはないだろうか?

精神医学の世界で、「不思議の国アリス症候群」と呼ばれるものである。そう、あのルイス・キャロルの名作の中で、アリスが体感する変容現象だ。
アリスは6年後の続編で、今度は「鏡の国」に迷いこむ。そこでは、赤の女王が「同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない」と語る。進化生物学の世界で、「赤の女王仮説」と呼ばれるものである。進化のスピードが指数関数的に増していく現代を、彷彿とさせる光景だ。

そのような時代に、スローライフに浸っていると、あっという間に時間が経ち、気が付いてみると過去の遺物となってしまう。だから全速力で走り続けなければならない――こちらは「浦島太郎症候群」と呼ばれる現代病だ。しかし、相対性理論は、早く移動するほど、相対的に時間の進み方が遅くなることを教えてくれる。言い換えれば、ファーストライフの中にこそ、スローライフが織り込まれているのである。

スローライフとファーストライフは、実は相反するものではなく、自在に行き交うものなのではないだろうか?例えば、人里離れた花脊でずっと暮らし、美山荘の美食を食べ続けることができれば、贅沢なスローライフの究極のようにも思えるが、私は間違いなく1年ももたないだろう。
ファーストライフの中でたまにスローライフに迷い込むからこそ、豊かなひと時を堪能することができる。ファーストライフを生きる現代人にとって、スローライフだけの生活に閉じ込められることは、流刑を意味するのではないだろうか?

ファーストライフの日常があるからこそ、エアポケットのようなスローライフに癒されることができるのだ――そう捉え直すと、現代のアリス(もちろん、著者アリス・ウォータースのことだが)が語るスローライフの価値を、素直に受け入れられるようになってくる。
メタバース(超現実)に逃避するのではなく、マルチバース(多元世界)が織りなすフラクタルな世界を楽しむことこそが、現代人に生きがいをもたらすのである。

本書をそのような視点から読みなおすと、「アリスの不思議な旅」のひとときを、心から満喫することができるはずだ――そんなことを考えているうちに、新幹線は私を京都から東京へと連れ戻してしまった。本をリュックに大切にしまって、これからしばらくは、またファーストライフの波頭を楽しむこととしよう。

2023年4月15日
東海道新幹線の車上にて

名和 高司(なわ たかし)プロフィール
東京大学法学部卒、ハーバード・ビジネス・スクール修士(ベーカースカラー授与)。三菱商事の機械(東京、ニューヨーク)に約10年間勤務。 2010年まで、マッキンゼーのディレクターとして、約20年間、コンサルティングに従事。自動車・製造業分野におけるアジア地域ヘッド、ハイテク・通信分野における日本支社ヘッドを歴任。日本、アジア、アメリカなどを舞台に、多様な業界において、次世代成長戦略、全社構造改革などのプロジェクトに幅広く従事。2010年6月より、一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授に就任。2021年4月より、京都先端科学大学教授に就任。デンソー(~2019年まで)、ファーストリテイリング(~2022年まで)、味の素、SOMPOホールディングス、NECキャピタルソリューションの社外取締役、朝日新聞社の社外監査役(いずれも現在も)、ならびに、ボストン・コンサルティング・グループ(~2016年まで)、インターブランド、アクセンチュア(いずれも現在も)のシニア・アドバイザーを兼任。

10/13-14にアリス・ウォータース氏来日特別企画として、「スローなイノベーションを生みだすビジネスリーダープログラム」が開催されます!


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